このところ、NHKの大河ドラマの影響もあり、戦国時代に興味を持って、本を読んだりしているので、4日に訪ねた八王子城も、前回のときよりもその歴史などが分かってきました。
ガイダンス施設の展示やパンフレット、ネット情報などから一部を書いてみたいと思います。
全国に多数あった城の中では、寿命が極めて短かったもののようで、天正10年(1582年)ごろに北条氏照(後北条氏第4代の、氏政の弟)によって築かれましたが、同18年(1590年)の豊臣秀吉の関東遠征、いわゆる小田原征伐のとき、6月23日に碓氷峠経由で関東に入った支隊に攻められ、1日で落城しました。小田原城の方は本隊に包囲されて兵糧攻めをされ、7月7日から9日に開城し、11日に氏政と小田原に一緒に詰めていた氏照が切腹しています。5代目当主だった氏直は命をとりとめ、高野山に入り、北条家は氏政の甥が跡を継いで、河内狭山藩というごく小さな藩を立てて、幕末まで続きました。
氏照は、もとは10キロほど北東に離れた多摩川右岸の台地上の滝山城にいたそうですが、八王子に移ったのは、織田信長の畿内制覇や豊臣秀吉の勢いをみて、より防御の固い城を欲したのではないでしょうか。
落城時の籠城者は1000人とも3000人ともいわれていて不明ですけれど、あまり多数の将兵を収容するところはないように見えます。
当時の居館、御主殿の跡の石垣や虎口の石畳などが復元されています。関東では珍しいことで、戦国時代末期の築城だからかも知れません。
The steps and stone walls leading to the Main Residence.
御主殿跡。右手の山寄りに居館の礎石が残っており、奥には庭石があって小さな庭があったようです。
左手には会所と推定されている建物跡があり、床の高さの縁台が作ってあります。その左側、縁側の前と思われるところには、石畳の通路があります。身分の低い人々は外の庭で指示をきいたりしたのかも知れません。

城跡の山を上り始めて10分くらいのところ、3合目あたりに「金子曲輪」の跡があります。尾根道が少し広くなった程度です。木々の間から八王子の市街の一部が見えました。東の方は展望がありませんが、頂上まで行かなくても、この辺りからでも、UHF/VHFで東京中心部方面と交信可能なのではないかと思います。
Kaneko Kuruwa, Kaneko quarter of the castle, at about the third point of the climbing path.
わずか1日で落城したとはいえ、実際に血みどろの戦いがあったことで、関東地方では比較的珍しい城ではないでしょうか。
この年の豊臣対北条の戦いでは、埼玉県北西部の鉢形城で約1か月の籠城戦がありましたが、こちらは少し早い6月14日に降伏して開城しています。
The Hachioji Castle was built around 1582 by the Hojo familiy, that governed most of the Kanto region in 15th and 16th century. The castle was attacked and occupied by the campaign of Hideyoshi Toyotomi in June 23, 1590.
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