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Castle

2013年10月26日 (土)

観音寺城と安土城 Kannonji Castle and Azuchi Castle

もう5年ほど前になりますが、今谷明著の「近江から日本史を読み直す」(講談社現代新書、2007)を読んで、滋賀県に興味を持ちました。日本の歴史の展開に影響する重要な地域であり、史跡もたくさん残っていることに目を開かれました。今回の旅行では、あまり多くを見ることはできませんでしたが、城跡を二つと近江商人の拠点を見てきました。
10月15日(火)は、早朝に関を出発し、国道1号で鈴鹿峠を越えて滋賀県に入り、日野、観音正寺と観音寺城跡、五個荘、安土城跡と回って、宿泊場所の休暇村安土八幡に着きました。

観音寺城は、戦国時代の山城ですが、石垣を築いた城としては最初のものとされているようで、築城技術の発達の上で重要な城です。また、南近江を守護として支配した六角氏(元は宇多源氏の佐々木氏)の本拠地でしたから、京都の西隣という重要な領域の支配の拠点でした。半国なので、小さいような印象を受け勝ちですが、近江国は広大な陸奥国を除くと一番豊かな国で、半分でも平均の一国ほどの石高があり、軽視できません。
城跡(本城跡)には、観音正寺の参道になっている有料道路(500円)で終点の駐車場まで行き、寺に参拝してから、脇道を通って行きました。関東の戦国時代の城跡と違い、石垣がありました。長い年月を経て、かなり荒れていますが、本城直下の石段など、状態の良いところもありました。
標高433メートルの繖(きぬがさ)山の山上付近に築かれているので、道路がなかったらたいへんです。本城(本丸)のほかにもいくつも曲輪があったようですが、簡単には近づけません。それにしても、中世の人は足が丈夫だったのか、身の安全のためには不便を厭わなかったのか、高い山の上に立て篭もったものです。

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本城に入る虎口の石垣
The entrance to the central area of the Kannonji Castle, Omihachiman City, Shiga
The Kannonji Castle was built by feudal lords of southern Omi in 15th century and abandoned during the last quarter of the 16th century. It is one of the earliest castles that used stone walls for fortification in Japan. (WCA JA-00066)

安土城は、いうまでもなく畿内までの制覇に成功した織田信長が南近江に新たに築いた城です。遠くからあの山が安土城のあった山だと見ていたときには、もっと簡素な山城かと思っていましたが、実際に行って見て、その築城が大規模であったことに驚きました。周辺の平地から100メートル以上ある安土山(標高199m)を利用し、頂上の本丸までほぼ石垣で築かれていて、たいへんな労力を必要としたものと思われます。権力の誇示という意味があったのでしょうけれど、覇者となることがどれだけの実権を伴うものか、信長の回りにいた明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、前田利家など、目の当たりに知らされたに違いなく、その後の激動の数十年の彼らの行動の原動力を知ったように感じました。
33メートルの高さがあったとされる大規模な天守閣(わが国で初めての天守)の完成からわずか3年で本能寺の変がおき(1582年)、城も十日余の後に焼け落ちたそうで、戦国の世の変化の激しさの象徴のようなものでしょう。

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本丸を見上げたところ。
The entrance to the central area of the Azuchi Castle, Omihachiman City, Shiga

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本丸と天守閣の礎石。天守は五層七階であり、天守の石垣はもっと高かったよう。
The central area and foundation stones of tenshukaku, the main tower.
The tower is said to have been 33 meters high.

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大手道の階段と南方、近江八幡市街方面の眺望。
The view of the south and the main approach.

The Azuchi Castle is famous for its builder, Oda Nobunaga. He was just about to unify the country when he built this castle near Lake Biwa in 1579. There remains a testimony by a Portuguese monk who praised the tall central tower as a big structure that could not be found in contemporary Europe. The castle was burnt three years later shortly after the sudden death of Oda Nobunaga and abandoned a few years later. (WCA JA-00006)

2013年7月19日 (金)

Komoro Castle 小諸城跡

The town of Komoro lies at about twelve kilometers southwest of Mt. Asama and is on the terrace formed by ash of the volcano. The Chikuma River flows from the south towards the town carving steep cliffs by erosion and turns to west below the town. The town has been important as the town along the highway that connects Tokyo and Nagano and other northern regions of Honshu.
It is no wonder that the place was chosen as the site of a castle. The remaining structures of the Komoro Castle, WCA JA-00089, were built in the late 16th century and in the 17th century. This castle has been selected as one of the best one hundred castles in Japan. The castle is a rare “hole castle”: It lies below the highway and the town beside it. This might have made the defense of the eastern side difficult, but once one sees the steep cliffs of the western side, he can understand the reason why this site was chosen easily. The photos below were shot on Sunday, July 14.

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          San-no-mon (Third Gate)  三の門

Img_6245s          The base of Tenshukaku (Main Tower Building)  天守台

Img_6242s          View from the castle towards west overlooking the Chikuma River.

     西方面の眺め。千曲川の下流方向。

Img_6236s          View from the castle towards southeast.  南東方面の眺め

小諸の町は、浅間山の約12キロ南西にあります。ここにある小諸城は、珍しい「穴城」で、城下町よりも城が低いところにあります。城跡(懐古園)の一番奥まで行って、見晴らし台から南や西を見たら、そちらは急な崖になっていて、千曲川を見下ろしており、北や南にも千曲川に流れ込む流れが、火山灰台地に深い谷を刻んでいるので、城の築かれたところが天然の要害であることが分かりました。

千曲川を見下ろしたときには、しばらく方向の判断がつきませんでした。先入観として、川が東から西へ流れていると思い込んでいたためのようです。実際は、南の佐久のほうから流れて来て、城の真下で西に方向を変えています。

上の写真は、7月14日(日)の夕方に、嬬恋村からの帰途に立ち寄った際に、撮ったものです。

2013年7月 2日 (火)

石神井城跡 Shakujii Castle

先日の武蔵関公園に続き、一昨日の日曜日に石神井公園に自転車で行ってきました。ここも武蔵野の湧水でできた三宝寺池と、そのすぐ下流の人造の石神井池を囲む公園です。三宝寺池の南側は武蔵野台地で、池より5メートルくらい高くなっており、そのさらに南には石神井川沿いの低地があります。この自然の地形を利用して、戦国時代に豪族豊島氏の居城である石神井城が築かれており、遺構が残っています。
地形から、西側に防御線がないので、土塁を築き、空堀を掘って郭を作っています。はっきりと残っているのは、主郭の部分とされていて、保護のためにフェンスで囲まれ、原則として中には入れないようになっていました。滝山城のような丘陵と違い、ほぼ平地で、宅地化も進んでいるので、城全体の構造は、現地ではほとんど分かりません。
説明の看板によると、土塁はもっと高く、空堀も深くて、堀の底から土塁の上まで10メートルほどあったと推定されたそうです。
樹木もあるし、石垣や門、櫓のある城と違い、城跡らしい写真を撮ることはなかなか難しいです。

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      主郭西側の空堀跡 The dry moat of the western side of the main section

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      主郭西側の空堀と土塁

              The dry moat and the earth bunker of the western side of the main section

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         主郭北側の三宝寺池にかかる橋を渡ったところにある石碑

I enjoyed another bicycle ride to the west from my home last Sunday. It took a little less than one hour to arrive at the site of the former Shakujii Castle. The dry moat and the earth bunker of the part of the castle that was thought to be the main section is remaining and surrounded by steel fences for preservation. The castle was said to have been built during the Sengoku era, or the Warring era, the fifteenth and sixteenth centuries, by Toshima family. The site is a part of a park in the western suburb of Tokyo. As the site is on the flat Musashino terrace, other sections of the castle have been lost by farming and urbanisation.

2013年5月24日 (金)

滝山城跡 Takiyama Castle

今日は、八王子市にある滝山城跡(都立滝山公園)を見に行ってきました。JR八王子駅からバスで15分ほどですが、300円でした。駐車場がないようなのでバスで行きましたが、城跡入り口の傍らにある農家が「駐車 1,000円」という看板を出していました。バス停は、城跡の南側にあり、こちらが大手口だったそうです。

城は、戦国時代後期に北条氏一族の北条氏照が整備したもののようで、北東に多摩川が流れ、南西には支流の谷がある、細長い丘陵を利用して築かれています。ここは、多摩川・秋川の二川の合流点であり、また川越へ繋がる渡し場でもあって、築城には交通の要衝を確保する目的があったと思われます。

はじめの登りはかなり急でしたが、しばらくすると道は平らになり、曲輪と曲輪の間をつなぐ土橋を通ったりして、曲がりながら進みます。

かなり丁寧に草を刈ってあり、土塁や堀の様子が良く分かります。また要所要所には、親切な看板が出ているので、読みながら進みました。(文中に「脅威」を「驚異」と書いた変換ミスを見つけました。)

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下の写真は、右側の中の丸と左側の本丸を結ぶ「引橋」を復元したものです。この堀割りは、人工的なもので、説明によると、元はもっと深かったことが分かっており、橋は今よりも下の方に架かっていたそうです。

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An artificial cut between the main area (left) and the central area (right) and a bridge.

中の丸の方がスペースがあり、東屋やトイレなどの公園の施設はそちらに整備されていました。国土地理院の地形図では、史蹟名勝の記号は中の丸に付いています。東屋のところからは、眼下に多摩川と対岸の昭島市方面の眺望が開けていますし、桜の木がたくさんあって、春はお花見ができるそうです。

本丸には、「史蹟 滝山城跡」と「滝山城本丸址」の石碑と井戸の跡、それに霞神社、金毘羅社の二つの神社がありました。神社はどちらも近年の再建です。

霞神社は、日露戦争後に南側の旧加住村の戦死者を祀るために創建され、その後の戦争の戦死者も祀られていて、靖国神社の分社のようなもののようです。

写真の金毘羅社の方が少し小さいですが、こちらは江戸中期からあったそうで、北側の旧滝村の住民が建てたものだそうです。場所は、本丸の櫓台跡とのことなので、城としてはここが最重要点だったと思われます。説明の碑に、滝村は、多摩川と秋川の舟運が盛んで栄え、舟の安全を祈って金毘羅を祭ったとあり、なるほどと思いました。また、城跡を「滝の城山」、「滝山」と呼んでいたそうです。

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Konpira Shrine at the former site of the tower of the main area.

金毘羅社の傍は、中の丸と同じく、北側の眺望が見事です。(北西側、社の背後方向も、低くなっていますが、樹木がかなり茂っています。)

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帰りは、同じ道を通ってもつまらないと思い、北側に下りていきました。多摩川・秋川の合流点のあたりの里から見上げた滝山城跡は、木が茂っていて、城の形は判然としません。

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多摩川から秋川の堤防を東秋川橋まで歩き、橋を渡って、JR五日市線の東秋留駅経由で帰りました。急に思い立ったのですが、快適に歩ける5月のうちに行けて良かったです。

The Takiyama Castle (WCA JA-00202) in Hachioji City, Tokyo, was enlarged in the latter half of the sixteenth century and was abandoned sometime in the end of the century. It was built utilizing hills that were 70 meters high above the riverside of the Tama River. The castle was fortified by earth banks.

2013年5月16日 (木)

水戸城址 Mito Castle

水戸へは何度か行ったことがあったのですが、偕楽園を見てほかへまわるような旅行ばかりで、街の中心部や水戸城址は今回がはじめてでした。
大きな城下町では、城跡が風情のある公園になっていたり、天守閣、櫓などがあったりして、観光の立ち寄り先になっていることが多いのですが、水戸の場合、城跡にある主な見所は、弘道館跡という学校跡で、その地味な性格から、行っていませんでした。
城は、北は那珂川、南は千波湖に挟まれた東に伸びる台地の先端部という自然の地形を利用して、西側は三重に堀を作って防御を固めたもので、堅固だったと思いますが、石垣が無いので、関東地方最大の藩である水戸藩35万石の本拠としては、地味なものです。

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                          大手橋。橋の向こうが大手門跡と二の丸(実質本丸)。

            The Ote Bridge (The bridge leading to the main gate)

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                       大手橋から見た二の丸(左)と三の丸間の堀跡(現在は国道) 。

          The former moat seen form the Ote Bridge. Ninomaru, the second area,

                      which was used as the main area, is to the left.

説明看板に、天正18年(1590年)、佐竹氏(佐竹義宣)が入り、54万石の本城として城郭も拡張したと書いてあるのを読み、秋田市の久保田城との類似が頭にひらめきました。
大昔に秋田に住んでいたことがあり、久保田(秋田)藩20万石、佐竹氏の本城、久保田城址の千秋公園にはときどき行っていました。久保田城も石垣を用いず、土塁だけで築かれた城です。関が原合戦時の去就を理由に水戸から秋田に転封(国替え)になったので、堅固な城を作って幕府に疑われてはいけないということから、石垣を使わなかったらしい、と聞かされていましたが、水戸のときから土塁の城にいたので、佐竹義宣は、石垣がなくてもよいという築城方針を持っていた可能性があります。
城には領民に領主の権威を示す機能もあるので、その点では、他藩に比べやや見劣りしていて、物足りないことは否めませんが、石を扱う技術の有無、石の調達や運搬のことなども関係していたのでしょうか。

The Mito Castle resembles to the Kubota Castle in Akita City, Akita: Both castles did not have stone walls and were protected by earth banks.
Both were constructed by the same feudal lord, Yoshinobu Satake, in the period around the end of the sixteenth and the beginning of the seventeenth century.

今回は、もちろん弘道館跡へも行きました。現在は、東日本大震災による被害の修理中で、庭園の拝観のみになっていましたが、その規模の大きいことに、さすが水戸藩と思いました。

Img_5643s                              弘道館正門

              Kodokan, the school established in the castle by the lord.

2012年11月24日 (土)

佐倉城(2) Sakura Castle(2)

佐倉城は、印旛沼の南の台地を巧みに利用して築かれた、江戸時代の11万石の譜代大名の居城でした。そのため、かなりの規模があり、いくつかの曲輪も明瞭に残されています。ただ、石垣を築かなかったので、防御線はかなりの数の空堀を含む堀と土塁だけでした。建物も残されていないので、写真になりにくい城址でした。

城址公園としては良く整備されていて、門や櫓の跡には親切な看板が立っており、かなりの看板には幕末か明治初めに撮られた建物の写真が出ています。主な櫓の跡は、石や植樹で輪郭を示してありました。

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上の写真は、天守閣の跡です。本丸の西の隅にあって、向こう側は急な斜面で、下に堀があり、さらにその外側には川があります。

江戸中期の延享3年(1746年)から堀田氏が城主でした。歴代城主の中ではなんといっても幕末の安政2年(1855年)から安政5年(1858年)まで幕府の老中首座を務めた堀田正睦が有名です。米国領事のタウンゼント・ハリスとの間で日米修好通商条約の交渉をまとめました。ただ、条約についての国論が分かれたのを収拾しようと条約調印の勅許を求めるため上洛したところ、勅許を得られず、安政5年6月、老中を罷免されました。

城址公園には、堀田正睦とハリスの一対の銅像が立っていました。

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その後しばらくは、井伊直弼が大老として勅許なしの開国、横浜開港を進めました。

堀田の前の老中首座、阿部正弘も含めて、幕末の政治指導者は、あまり高い評価を与えられていませんが、明治以降、勝者としての尊皇攘夷派、薩長土肥の西南雄藩から見た歴史が通説となり、開国や西洋科学の導入など、良い事績もあまり評価されて来なかったことに注意する必要があるようです。数年前、土居良三の一連の著書でその辺りの認識を改めました。

The Sakura Castle was owned by the feudal lord by the name of Hotta during the latter half of the Edo era. The castle did not have stone walls unlike many other Edo era castles.

One of the successive lords was Masayoshi Hotta, who was the primary roju  or the prime minister for shogun (tycoon) from 1855 till 1858. His government reached agreement with Townsend Harris, Consul General of the United States to Japan on the provisions of the Treaty of Amity and Commerce. There are statutes of Hotta (right) and Harris (left) in the park at the site of the former castle to commemorate their historic deeds.

The photo above shows the base of tenshukaku or the main tower at the western corner of the castle.

2012年9月22日 (土)

江戸城牛込門跡 Ushigome Gate, Edo Castle

 昨日、JR中央・総武線飯田橋駅西口そばにある牛込門(牛込見附)の跡を見に行ってきました。麹町に行ったついでに、市ヶ谷駅経由で歩いていきました。

 常磐橋のことをネットで調べていたら、常磐橋門は「江戸五口」のひとつの重要な門だったという記事にぶつかり、江戸五口とはどこか、探してみたら、虎ノ門、四谷門、牛込門、筋違橋門、浅草橋門の五ヶ所らしいことが分かりました。常磐橋門は入っていませんが、江戸城築城の初期の、浅草橋門が未整備のころには、常磐橋門が入っていたということらしいです。そこで、手軽に行けて、保存状態も良いらしい牛込門へ行ってみることにしました。ときどきそばを通ったことはありますが、意識して見たことがなく、東京の町の成り立ちの認識を改めました。

 飯田橋駅は、東口は神田川、日本橋川の低地にありますが、西口は九段坂上から続く高台にあり、牛込門もその高台に作られています。

 門の枡形は北東から外濠にかかる牛込橋を渡って入ると右折する形だったようですが、橋の方から向かって右、西側の櫓門の北側を支えていた石垣と、向かって左の枡形の北の端の石垣が残されています。

Img_4563s(櫓門を支えていた石垣。外濠側の部分の全部が線路のレベルまで残っている。)

Img_4550s(東側。枡形の北の端が残っている。手前は、高麗門に続いていた石垣の一部)

 橋を北へ渡ると外堀通の向こう側は神楽坂です。牛込門は、前に紹介した北の丸の北端の田安門から500メートル強くらいの近さですし、旗本、御家人などの侍が門を出て息抜きをする貴重な場所だったのかも知れません。また、まだ交通手段が限られていた大正時代にも、山の手の住民が簡単に行ける商店街、繁華街として繁盛したようです。

 五口の門は、牛込門以外は、東海道、甲州街道、中山道、奥州街道と、大きな街道に続いています。牛込門は、上州道ということだったらしいのですが、たぶん江戸川橋、音羽通、護国寺を経て、川越へ行く道につながっていたのではないかと思うものの、江戸時代の道がどこをどう通っていたのか、ちょっと分かりません。

I visited the remains of the Ushigome Gate of the Edo Castle yesterday. The gate is said to have been one of the five major entrances to Edo. Most gates along the outer moats of the Edo Castle have been demolished. This is one of the few gates that are preserved well. It is located only fifity meters from the busy Japan Rail Iidabashi Station.

2012年5月28日 (月)

Edo Castle 2 江戸城 2

It was a pleasant sunny day yesterday. I went to the Edo Castle, also known as the Chiyoda Castle, for a long walk and saw most of remaining gate buildings and yagura (keeps). I started from the Shimizu Gate, probably the least visited gate of the castle.

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The gate viewed from outside with Kitano-maru (north quarter of the castle) in the background.

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Watari-yagura, a bridge-shaped keep, of the Shimizu Gate viewed from inside koguchi area, where attackers must turn 180 degrees to proceed even if they succeed to break the gate.

昨日は、天気が良くて屋内にいるのはもったいなかったので、江戸城(千代田城)の門と櫓を見て歩きました。渡り櫓の残っている城門は、記憶しているかぎり、田安、清水、平川、大手、桔梗、坂下、西の丸大手(皇居正門)、桜田の8つだと思いますが、その内の田安、平川を除く6つをまわりました。清水門は、北の丸公園の東側のあまり人の通らないところにあり、行ったのは初めてではないかと思います。

2012年5月19日 (土)

Hachigata Castle 鉢形城跡

I went to see the Hachigata Castle in Yorii Town, Saitama, the day before yesterday for the first time. This medieval castle is said to have been built in 1476 and lost its lord when its defenders surrendered after a month long seige in 1560. I had thought the castle to be smaller and on a steeper hill before the visit. I was surprised by the spacious area. It has seven or eight kuruwa (defensive quarters) in it. It utilizes the Ara River as the northwestern defensive line and the Fukazawa River gorge as the eastern defensive line. Ditches, stone walls and earth bunkers were constructed for its southern defense. Ote (main) gate was at this upstream point and Karamete (rear) gate was near the confluence of the two rivers downstream. The photo shows the restored gate of San-no-kuruwa, the third defensive quarter, and Ote (main) gate was somewhere near the small torii to the left in the photo. The second photo is the Ara River viewed from the top of San-no-kuruwa.

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一昨日の17日に埼玉県寄居町の鉢形城跡に行きました。戦国時代の城ということで、もっと険しい丘に築かれていたと思っていましたが、城内には平らな場所も多く、かなり広々としていて、先入観は間違っていました。荒川とこれに合流する支流の深沢川の谷をうまく利用し、南側(上流側)には堀などで防御をほどこしてあります。こちらの方が大手で、下流の二つの川の合流するあたりが搦め手とされています。

町が観光に力を入れているようで、三の曲輪の四脚門やその周辺の石垣が復元され、曲輪の跡の相当の面積は、きれいな芝生になっていました。鉢形城歴史館という展示施設もあります。

2012年4月11日 (水)

Edo Castle 江戸城

The castles in Japan were built by numerous stones. We do not ask where those stones came from nowadays as they were built about four centuries ago. The photo shows the Tayasu Gate, one of the thirty-some square-shaped gates of the Edo Castle. The city of Edo, present day Tokyo, stands on an alluvial plain and a terrace of volcanic ashes and the nearest place with rocky ground is at least thirty kilometers away.

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When I went to Ito city at the neck of Izu Penninsula the other day, I saw some left-over stones of the Edo Castle there. There were quarries in nearby mountainous areas and stones were transported from the port of Ito to Edo by ships. If we consider the volume of all stones usued to build the Edo Castle, we realize that the port must have been very busy in those days.
Feudal lords who were assigned construction work by Shogun had their family insignias inscribed on some of the stones for identification.

(left at the Tayasu Gate, right in Ito)

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By the way, I have received e-mail from foreign hams to invite me to participate ham radio castles award programs twice or three times. I find that 241 castles in Japan have numbers assigned in the World Castles Award program. The Edo castle is JA-00010. However, many Japanese castles have spiral structures and it is often difficult to find clear boundaries. In addition, many of original boundaries such as moats and stone walls have disappeared due to the necessities of present urban life. Some more reserch and thinking seem necessary to start castles activation in this country.

今日は、東京の北の丸公園の北口にあたる田安門へ行きました。先日、伊東へ行ったときに、江戸城へ運んだ石の残りがおいてあったので、あらためて築城当時の工事のたいへんさを考えました。

ところで、ヨーロッパでは、城移動のアマチュア局と交信するWCAが盛んなようです。見ると日本の城にもナンバーがつけられていますが、日本の城は縄張りがらせん形だったり、明治以降の改変があったりで、境界線がはっきりしないものが多いと思われます。もう少し、考えないとQRVはしにくいです。ちなみに、WCAでは、ARLHSと似て、城から1,000メートル以内からのオンエアが有効のようです。