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ブラントン、エルトン、浅野応輔

ブラントン、エルトン、浅野応輔 (2007/11/18初稿・雑文)

 読者の皆さんは、これらの人々の名をご存知でしょうか。たまたまこの3人が出てくる次の3冊の本を続けて読み、興味深く感じましたので、紹介します。

・R・H・ブラントン(R. H. Brunton)著、徳力真太郎訳「お雇い外人の見た近代日本」

・梅渓昇著「お雇い外国人」

・福島雄一(JA1BZM,exJA8BO)著「にっぽん無線通信史」

 ブラントンは、明治初期に灯台の建設に携わり、日本の灯台の父ともいわれているスコットランド出身の人物です。2年前から、灯台に興味を持っており、インターネットであれこれ見たり、いくつかの灯台を見に行ったり、近くでアマチュア無線をしたりしているうちに、自然に彼についても多少読んでいました。

 たまたま、ある図書館で、ブラントン自身が書いた回想の本を見つけましたので、読んでみました。 原著は、未出版の原稿で、アメリカ東部のニュー・ジャージー州、ニュー・ブランズウィックにあるラトガーズ大学に保存されていたものだそうです。

 ブラントンは、性格もあったのでしょうが、依頼された以上は手抜きをせず、灯台を完成させ、運用することを目指したため、外人には助言は求めるが、意思決定は自分たちでするという日本人としばしば対立したようです。日本人では佐野常民だけはほめていますが、他の邦人灯台関係者には批判的です。

 また、彼の場合には、日本政府が条約で灯台の建設を諸外国に約束したという、特殊な背景がありました。このため、自分は日本のために働くとともに、英国をはじめとする諸外国のために仕事をしているという意識があり、他の部門のお雇い外国人とは違って、より強い立場に立てたようです。回想にも、ときどき当時のパークス英国公使に訴えて、公使から政府に働きかけてもらったことが書いてあります。

 彼の残した灯台は、本当の初期ですから、場所もいちばん大切なところにあり、それぞれ風格があります。ただ、関東では、関東大震災などで当時のものが失われたため、犬吠埼灯台しか残っていません。他に、東海地方ですが、比較的近くに神子元島灯台があり、近代化遺産としても有名です。

 ブラントンの本を返して、同じ書棚にあった「お雇い外国人」を借りました。こちらは、代表的お雇い外国人を原則として各分野ひとりづつ紹介していますが、灯台建設は、やや特殊な分野であるためか、ブラントンは出てきません。ただ、序文に、ラトガーズ大学のグリフィス文庫のことと、自分自身がお雇い外国人であり、「お雇い外国人」研究のパイオニアとしてその体系的、組織的研究に取り組んだグリフィス(W. E. Griffis)のことが紹介されています。ブラントンの前記の原稿も、グリフィスがブラントンの遺族から入手していたものだったのです。

 工学方面では、「日本に電灯をともしたエルトン」という一節があり、工部大学校で電信学と物理学を教えたエルトン(エアトン W. E. Ayrton) が紹介されています。「かれの寄与の第一は、日本の電気工業発展の基礎を固めたことである。」とされています。

 1878年(明治11年)3月25日、工部大学校のホールで、彼の指導のもとに、浅野応輔らの工部大学生がアーク灯に点灯したそうで、その後、この日が電気記念日とされているそうです。もっとも、この時、晩餐会場はにわかに白昼の観を呈したものの、それも束の間で、アーク灯は消えてしまい、宴席はたちまち暗黒となり、その後どうしても点灯を続けることができなかったとのことです。(浅野応輔は工部大学校第3期生電信科)

 エルトンは、ロンドン生まれですが、グラスゴー大学で電気工学を学んだので、スコットランド出身のブラントンや工部大学校校長ダイエル(ダイアー H. Dyer)と同様、スコットランドに縁があります。

 浅野応輔の名は、1906年(明治39年)にベルリンで開かれた第一回国際(万国)無線電信会議に出席し、日本政府代表の首席として「国際無線電信条約」に署名した人として記憶にありましたが、若い頃に電灯をつけたりしたことは、この本ではじめて知りました。ちなみに、ドイツ大使館付武官であった八代六郎海軍少将がこの会議の次席代表、咸臨丸でアメリカに渡った木村攝津守の次男の海軍教授木村駿吉も代表でした。

 たまたま別途近くの図書館から借りてあった「にっぽん無線通信史」の巻末の資料編、「明治期・先駆者達のプロフィール」を見ますと、浅野が9人の筆頭に出ていました。「(明治)24年8月、電気試験所初代所長に就任。・・・30年、無線電信に関する研究を所員・松代松之助に命じて我が国における電波利用の端緒を開き、その後も逓信省ルートでの機器開発、実用化に力を尽くす。・・・36年、水銀検波器を考案。」とあります。

 この「にっぽん無線通信史」を借りていたのは偶然の出会いからでした。10月7日(2007年)に、所属の無線クラブで、恒例の公開移動運用を行いました。全市全郡コンテストに参加し、7メガの電信でCQを出していましたら、JA1BZM局から非常に強いシグナルでコールがあり、同じ区の局と分かりました。私ははじめて聞くコールで、クラブ員にも知っている人はいなかったので、帰ってからネットで検索してみました。すると、福島さんという方で、本を出しておられることが分かりました。あちこち探すまでもなく、近くの図書館の開架書棚に置いてありましたので、借りてきて、後で読もうと置いていたのです。

 この本では、浅野が所長の逓信省電気試験所が行った初期の無線通信実験のことが考証されています。明治31年(1898年)12月17日(土)に月島の西端と南東端の間、約550メートルの相互通信と、南方約2キロメートルの第3台場でのその通信の受信だったとされています。東京の真ん中近くで初期の無線の実験が成功していたのです。

 ところで、浅野が無線電信の技術導入、研究開発に取り組んだきっかけは、灯台だったようです。明治30年(1897年)の夏、航路標識管理所長、石橋絢彦が浅野のところに研究を依頼しに来ました。石橋は、近着の外国雑誌に掲載されていたマルコーニの無線電信に関する記事を見て、これを灯台間の連絡に利用できないかと考えたのです。(石橋絢彦は工部大学校第1期生土木科)

 灯台のブラントンからはじまったこの時の読書は、電気、無線を経由して、また灯台に戻ってきたので、奇縁を感じ、一文を書いてみた次第です。