Links - Locals

  • ex J3CK, JP1JCK
    The original owner of the TS-850S in my shack. SK, Nov. 30, 2015. RIP.





2021年8月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 2015年7月 | トップページ | 2015年9月 »

2015年8月

2015年8月31日 (月)

南魚沼 その2 越後上田庄

29日(土)の朝に六日町の宿で目覚めると、目の前に金城山(1369m)と坂戸山(634m)が山裾に帯のような低い白雲をまとって見えていました。

午前から午後2時半ごろまでは、今回の主目的の家族日程で、八海山の麓の場所で楽しく過ごしました。

そのあと、車で北上して金城山の麓の古い寺、「金城山雲洞庵」を見に行きました。
由緒では奈良時代に藤原一族の婦人が尼となって庵を開き、室町時代の中期に鎌倉公方の下で関東管領であった上杉憲実が曹洞宗雲洞庵を開創したとのことです。上杉憲実は主に鎌倉中心に活動したようですが、父親が越後守護で、生まれは越後だったようです。また、足利学校や金沢文庫を再興したといわれているので、宗教、文化にも関心が強かったのでしょう。
上杉氏は足利氏の家来筋ですが、もともとは勧修寺流の藤原氏でした。はじめての皇族将軍であった第六代将軍宗尊親王が関東に下って来るときに、お付きとして上杉重房が鎌倉に来て、丹波国上杉荘を与えられ、武家になって上杉と名乗ったとのことです。上杉憲実も、藤原氏の縁で雲洞庵を大切にしたようです。そのようなことから、越後で一番寺格が高いとされているそうです。
また、越後の守護は同族が継ぎましたが、憲実は上野国の守護であったので、越後と上野を結ぶ道の沿道にあるこの寺を大切にした可能性もあります。
戦国時代など、古い時代には、清水峠に通じる清水街道が、関東に出る近道として使われていたそうです。現在は通行不能らしいです。

Img_9922s雲洞庵の赤門。宝永4年(1707年)に再建されたもの。
The Red Gate of the Untoan Temple.

Img_9925s赤門から本堂に至る参道。敷石の下に法華経の文字を書いた石が敷き詰めてあり、歩くとご利益があるとのこと。

Img_9928s雲洞庵本堂。同じく宝永4年の再建。 The Main Chapel.

戦国時代には、上杉景勝と直江兼続がここで勉学しました。(大河ドラマ「天地人」の主人公)

六日町の市街方向に戻り、坂戸山の麓にある坂戸城址に行ってみました。
駐車場で車を下りて見回しても、どこが城跡なのかちょっと分からなかったのですが、トレイルランイングのトレーニングを終えた様子の人に聞いたら、車止めの先に行けば、5分足らずで石垣がありますと教えてくれました。山自体が城だったようなので、頂上まではどのくらいかかるか尋ねたところ、上の方は相当にきつく、登山のつもりで行かないとだめとのことでした。どれくらいの時間で登ったのかきいてみたら、25分とのことでした。パンフレットのコースタイムでは80分です。
戦国時代の上田長尾氏の居城で、こちらも大河ドラマに登場しました。

Img_9940s坂戸城跡の石垣。慶長15年(1610年)に廃城になるまで整備されたので、残っている遺構はそのころの領主、堀氏によるものらしいです。
The remains of the Sakado Castle. It was built in the medieval era and abandoned in 1610.

Img_9947s下から坂戸山を見上げたところ。左の谷筋が城坂コースのようです。
This hill itiself was fortified.

〔上杉氏成立の由来について参考にした本: 今井雅晴「中世を生きた日本人」学生社、1992。たまたま図書館で見つけて今借りている本です。著者の名前になんとなく見覚えがありました。高校のころの運動部でちょっとこわかった先輩らしいです。〕

2015年8月30日 (日)

南魚沼 その1 八海山 Mt. Hakkaisan

28日(金)から30日(日)まで、2泊3日で新潟県南魚沼市に行ってきました。久しぶりに我が家の隊長と一緒の往復約470キロの車での遠出でした。

28日は、社寺めぐりなどを考えていましたが、関越道で11時ごろ関越トンネルを抜け新潟県に入ると、曇っていた関東平野と打って変わって、ぐっと暑くなり、雲はありますが、青空が見えています。隊長指令が出て、3日目にと考えていた八海山ハイキングをすることになりました。
11時ごろ、塩沢石打SAで弁当として塩おにぎりと蒲鉾を手に入れ、荷物を整え、八海山ロープウエイの乗り場に向かいました。乗り場でさらに着替えや靴の履き替えをして、12時発のロープウエイに乗りました。このときは、八海山の中腹から上に雲がかかっていたので、上の駅からの眺望がきくかどうか、不安でしたが、幸いに下の方の景色は良く見えました。

Img_9891sロープウエイ駅上の展望台より魚沼平野を望む
Uonuma Region from the upper terminal of the Hakkaisan Ropeway, Niigata.

こちらはもともと4合目のロープウエイの駅から女人堂(6合目)までのつもりでしたし、隊長も遅い出発や天候の悪化の可能性から今回はそこまでで帰ることにし、標準コースタイムで80分のところを登ってみることにしました。ネットの標高差は250mくらいですが、途中で50mほどのアップダウンが2回ありました。
夏になってウォーキングからも遠ざかり、運動不足気味の当方には、最初から登りがきつく感じられました。しかし、10分くらい汗をかきかき登っていると、ランナーズハイなのか、なんとか続いて足を運べるようになりました。

Img_9898s手前のこんもりした高みの木立の切れ目に女人堂が見えています。
Nyonin (Lady's) Temple, Mt. Hakkaisan.

二つ目の高みを越えたあたりから、前方の見上げるような高みに小屋が見えてきました。こちらは目指す女人堂はもっと下ではないかといったのですが、隊長はあれくらいなら案外近く、あれがそうだろうといいます。たしかに進んで行くと、近づいてきて、他の小屋ではないと分かりました。最後の登りの手前に少し開けた場所があったので、そこで石に腰を下ろして、しばし休憩し、残り10分くらいの急な登りで無事女人小屋に到着しました。所要65分ほどでしたので、それほどスローペースではなかったようです。

Img_9904s女人堂(1370m)から薬師岳(1653m)を望む
Mt. Yakushidake(1653m). One of the several peaks of the Hakkaisan Range.

ここで弁当を食べ、写真を撮ったりして、引き返しました。

Img_9911s帰り道のほうが少し眺望がきくようになり、薬師岳と次の瘤とのあいだに千本檜小屋が見えました。険しさで有名な八ツ峰の奥の方は隠れていました。
Only tow or three peaks of the Eight Peaks of Hakkaisan could be seen.

ちょうど14時40分発の下りロープウエイに間に合い、六日町温泉の宿に着いて、温泉で疲れを休めました。
この日の夕刻にNHKのTVで「小さな旅」として八海山を取り上げていたので、たいへん興味深く見ました。

〔追記〕八海山の中心部は、越後三山只見国定公園(JAFF-0051)に指定されています。今回登ったところは、行程の中間くらいの池の峰から女人堂あたりまでは、行政界(旧町村界、おおむね尾根筋か?)の北東側が公園区域です。女人堂あたりから上になると登山道の両側が区域ですが、境界は国有林の林班界とのことで、女人堂周辺が区域かどうかは図上からは判然としませんが、避難小屋のマークが女人堂のあたりの区域内にあるので、区域内と思われます。
http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/map_21.pdf
SOTAのナンバーは、最も高い入道岳に付いています。(JA/NI-017)

2015年8月23日 (日)

ハムフェアなど Ham Fair, 2015, Tokyo

昨日、22日(土)は、YF1AR/PがYBFF-016、ハリムン山国立公園(Mount Halimun Salak National Park)からオンエアするとのアナウンスが「WWFFフォーラム」掲示板に出ていたので、探してみました。0120 UTC 過ぎに21メガで弱く聞こえていたので、コールし、なんとか交信できました。クラスターに書き込んでみましたが、呼ぶ局は少ないようでした。

Img_9865s          ハムフェア会場の東京ビッグサイト 
                      Tokyo Big Sight. Ham Fair, 2015 was held here on the weekend.
                
今日、23日(日)は、WFF、WWFFの関係でお世話になっているJA7IC局が福島県から来られるというので、あらかじめ打ち合わせ、11時前に会場でお会いしました。
上京して参加される予定が直前にブログで分かったJP6NWR局と、集合された「ドラちゃん移動隊」のJA6UFF局、JE8ASA局、JR0UIU局にも合流していただき、小一時間、JAFF移動運用のこと、ヘックスビームのことなど、あれこれお話ができました。
ひとまず解散したところにときどき一緒にJAFF移動に行っているJA1FAQ局が来場し、JA7IC局と3人で昼食をとりながらまたしばらくお話しました。

前の日に急に思い付いてJAFFのリストとWWFFログサーチからプリントしたJAFFのハンター・アクティベーターのランキングを5枚ほど持参し、2~3のクラブのブースで説明して、誰かクラブのメンバーで興味がある方にどうぞと渡してきました。

SOTA JA発足に尽力されたJJ0CJH局にも、山と無線のブースで初めてお会いし、しばらくお話ができました。また、午後場内をぶらぶらしているところに先般9M6に行かれたJH1BXH/JJ0KRD局から電話をいただき、場内でお会いできました。

ほかに、タイアマチュア無線連盟、RASTのブースで、会長(President)のHS1FVL/JI1NNT局と、デイトンアマチュア無線協会(DARA, Dayton Amatuer Radio Association)ブースでハムベンションのPRをしていたKD8GIK局、東京国際アマチュア無線協会、TIARA、のブースで7J1ABC局と少しお話をしました。

製品の関係では、たしかラジオパーツジャパンという大阪の会社がヘックスビームを展示、販売しているのが目にとまりました。
給電部が当局の作ったものと違い、エレメントの一方の端末をアルミ?のマストにじかにネジ止めするようになっています。ただ、マストの上端についている同軸ケーブルのコネクターのアース側は、マストから浮かしてありました。細部は会社独特のノウハウなので、言えないとのことでした。

当初は行くつもりがなかったハムフェアでしたが、JA7IC局のおかげで、かなり得るものがあった1日でした。

2015年8月19日 (水)

オープンカレッジ

3年くらい前から、カルチャー教室のようなものの案内パンフレットを見て、面白そうで、かつ、あまり負担にならないものに、ときどき申し込み、聞きに行っています。
なかなか条件に合うものがないのですが、近くにできた大学のエクステンション、分校で今月に3回コースの「鎌倉探訪」というのがあったので、申し込み、今日はその2回目に行ってきました。
10時30分から12時までの90分授業で、自転車で10分程度のところなので、楽です。もっとも、2週間前の1回めのときは、自転車駐輪場の場所が分からず、うろうろしてしまいました。

Img_9858_2s戦前は、陸軍通信隊や通信、諜報教育を行った中野学校があった国有地が再開発され、2年前にほぼ完成して、企業本社用ビルや大学、病院、公園ができました。中央に見える東西の大通りの北(左)と南(右)にこれらが並んでいます。
The avenue was completed two years ago at the former site of the Nakano School (for communication and intelligence) of the Imperial Japanese Army. Two office buildings, a hospital, three universities and other facilities were built here. There is a new park beside the avenue also.   

講座の講師は鎌倉の女子中学・高校の錦校長先生ですが、内容はタイトルとは少し違い、鎌倉時代末期の鎌倉の諸相を、「太平記」を軸に、関連史料とあわせて読みすすめて、探っていくというものです。

今日は、鎌倉幕府の最後の20年ほどの幕政の混乱の様子が主なテーマでした。
たまたま、先日、金沢称名寺で供養塔を見てきた(金沢)北条貞顕のことが出てきて、興味深く聴けました。
1326年、嘉歴元年に嘉歴騒動という北条政権内の内紛があり、出家して第14代執権を辞めた北条高時の後任として、(金沢)北条貞顕が第15代執権になりますが、高時の弟、泰家を執権に推す御家人の武士たちが一斉に出家して不満を表したため、貞顕は暗殺の危険を感じて、執権在職わずか10日で、自分も出家し執権を辞めたそうです。

北条高時は、軍記物である「太平記」では、田楽や闘犬に狂った非道な権力者に描かれていますが、筆まめであった(金沢)北条貞顕の書簡など、信頼できる史料によると、病弱で穏健な人で、禅宗に強い関心を持ち、御内人(北条氏本家、「得宗」直属の家来)の長崎氏などに実権を握られて思うような政治ができなかった人であり、当時、都でも鎌倉でも盛んであった田楽を、特別に好んでいたという証拠はないようです。ただ、東大寺手掻会という行事で演ずる田楽役者の選任に、依頼を受けて介入したことがあり、これに東大寺が猛反発し、その辺りが原因で、都に高時の田楽狂いの噂が立ったらしいとのことでした。

2015年8月16日 (日)

ILLW MY0001 & WWFF YBFF-025

ひと頃のような酷い暑さではなくなりましたが、まだ暑い日が続いています。一方、だいぶん日が短くなってきました。

一昨日は、XYLの実家の、昨日は当方の家の墓参りなどしています。

無線の方では、今週末がILLW, 国際灯台・灯台船週末なので、クラスタを活用して参加局を探したりしていますが、当局の出られるバンドでのオンエアは少ないようで、あまり見つかりません。昨日、21メガSSBで、マレーシアの灯台局、9M4LHN と交信しました。
https://www.qrz.com/db/9M4LHN

このイベントがスコットランドからスタートし、現在はオーストラリアの局がコーディネーターをしていることと関係があるのではないかと思いますが、もと英連邦だったマレーシアは参加局が多いようです。今年の参加者リストでは、8局がエントリーしています。
http://illw.net/index.php/entrants-list-2015

また、今日の午前には、インドネシアのYF1AR/0 と21メガCWで交信しました。こちらは、IOTA OC-177、セリブ諸島からのQRVですが、WWFFのフォーラムにもYBFF-025、セリブ諸島国立公園とのアナウンスが出ていたので、聞こえたら交信したいと思っていました。
https://www.qrz.com/db/YF1AR

WWFFフォーラムの大陸別のQRVインフォメーションの掲示板には、オーストラリアとあって、オセアニアはありませんが、便宜、オーストラリアのところにアナウンスが出ています。
YBは比較的交信しやすく、またYF1AR局はCWにもアクティブなようなので、今後も注意していきたいと思います。
なお、このYF1AR局がコーディネーターとなって、YBFFのアワードがあり、WWFFのメンバーとなっているようです。ホームページは今のところないようです。

マレーシアもWWFFに参加しており、こちらはホームページがあります。
http://www.9mff.blogspot.jp/

2015年8月12日 (水)

「私の昭和史」

考えてみると、いくつかある文学の形式の中で、散文詩との関わりは、独特のものになっています。
学校時代に教科書に出てきたいくつかの詩の冒頭のフレーズや詩人の名前は、それなりに憶えているのに、成人になってから散文詩を読むようなことはありませんでした。新聞にも短歌や俳句の欄はあって、週に1回はかなりの紙面がさかれていますが、詩を目にすることはありません。

そんなことで、5月ごろに、歴史好きの知人のKさんから、返却はいつでも良いから読んでみてはどうですかと、中村稔著「私の昭和史」(青土社、2004年刊)を送っていただいたときには、この著者の名前はまったく知りませんでした。
調べてみると、1998年に日本芸術院会員、2010年には文化功労者に選ばれている、現代の代表的な詩人でした。
日本近代文学館理事長を経て名誉館長となっていますが、これは、知的財産権を専門とする弁護士としてトップクラスの実績があることも評価されて、散文詩という小さな分野にもかかわらず、選ばれた可能性があります。

Img_9793s駒場の旧前田邸の敷地内にある日本近代文学館。ここも暑い最中の8月4日(火)に初めて行ってみました。

厚い本ですが、興味深く読み進んで読み終わったら、まだ終戦のところまででした。
そのときは、占領の終了、平和条約のところまでは読んでみようと、続編の「私の昭和史-戦後編 上」(2008年刊)を図書館で借りて読みました。結局、止められなくなり、同下巻、引き続き「私の昭和史 完結篇 上、下」(2012年刊)まで5冊を7月のはじめに読了しました。

そんな他動的な読書で、ここで取り上げるのもやや場違いですが、これほど大冊の本を読むことは稀なので、記録として書いておくことにしました。

どうも詩や詩人について書かれていることは、あまり良く分かりませんでしたが、むしろ、著者が弁護士として関わった特許権、著作権、表現の自由、商標権などの訴訟、係争の話を興味深く読みました。

著者は昭和2年の早生まれで、長命なのですが、そのために、先立って逝った友人、知人への追悼と鎮魂の言葉が次々に出てきます。
読んでいて、これは昭和の「平家物語」なのではないかと思いました。源平の合戦のようなものがあるわけではありませんが、昭和、特に戦後の科学技術の進歩、産業の発展、高度経済成長に寄り添うように仕事をしてきた著者が、平成の時点で振り返って、失ったものが大きく、無常を感じているように読めました。

また、強い正義感を持った文学青年が、弁護士という束縛の少ない立場で、そのまま成人となって、理想主義やロマンチシズムをかなり保ったまま、社会を観察しています。大戦の戦場に行くことは、僅かの年齢差で免れていますが、いつ死ぬことになってもおかしくないという、戦中の体験は、著者や友人たちのその後の人生にも大きな影響を与えていることが伺えました。

一つの特長として、大宮に生まれ育ち、結婚後も大宮に住み続け、職場はほぼずっと丸の内の特許法律事務所なので、全体が定点観測になっています。昭和という変化が大きかった時代では、ありそうでなかなかない一生なのではないでしょうか。

著者の活動の幅広さから、多くの人々が登場します。ソニーの盛田昭雄氏ともクライアントと弁護士という縁での接触が書かれています。ソニーがまだ電気製品しか製造販売していなかった頃に、「ソニーフーズ」という名の会社ができて食品を販売したのを、差し止めた訴訟があったそうです。

なにしろ大作なので、書けばきりがありませんが、おそらく昭和という時代を書いた本の代表的なものの一つとして、残って行くでしょう。

Img_9799s

2015年8月 7日 (金)

金沢山称名寺 Shomyoji Temple

日ごろなんとなく武蔵国は東京都と埼玉県、相模国は神奈川県と思っていましたが、地図で昔の両国の国境を見ると、現在の東京都町田市が南方の神奈川県のほうへ張り出している先端から、そのまま東南の方へ伸びていて、東京湾の横浜市金沢区と横須賀市の市境まで達しています。多摩川の右岸や鶴見川など東京湾に注ぐ川の流域は武蔵国となっていて、それなりに合理的なことに気付かされました。
多摩川の南側の東急東横線に武蔵小杉駅もあるのですが、あまり意識しないで通っていました。

昨日は、その武蔵国の東南の端、旧久良岐郡六浦荘金沢郷、現在の横浜市金沢区金沢町あたりに行き、神奈川県立金沢文庫と称名寺を見てきました。
このところ、中世史に興味を持っていて、特に鎌倉やその外港であった六浦あたりに一度は行ってみたいと思っていたところに、6月下旬には会合で元気な姿を見せていた知人が急逝したとの訃報があり、お通夜が近くであったので、暑い最中に衣装バッグ持参、コインロッカー利用で出かけました。

京浜急行の金沢文庫駅から東へしばらく歩くと左手に丘と大きな屋根が見えてきました。予習不足で、これが寺かも知れないと進んでいったら、金沢文庫でした。

Img_9816s

Kanazawabunko Museum, Kanazawa-ku, Yokohama City There was the Kanazawa Bunko library in 13th and 14th century here. The library was lost but some of the books in the collection still remain in various places over the country.

一番暑い時間帯を歴史博物館になっている館内で過ごした方が良いので、見てまわると、ちょうど団体がいて、説明役の講師が金沢北条氏歴代の肖像画の前で、1333年に北条貞顕は北条得宗家の北条高時らと一緒に自刃し、子息の貞将は巨福呂坂で新田義貞勢に切り込んで討ち死したことなどを説明していました。
金沢文庫は鎌倉幕府の滅亡後に失われましたが、その蔵書があちこちに伝わり、金沢文庫旧蔵ということが古文書の価値を高めたので、偽物もたくさん出回ったのだそうです。 展示品にあった蔵書印は黒の単純なもので、真贋の判定もたしかに難しそうでした。
図書閲覧室があったので、そこで司書の人に昔の地形が分かる資料を教えてもらい、鎌倉時代ごろには称名寺・金沢文庫の南西に大きな入江があり、瀬戸の内海などと呼ばれていたことを知りました。 同じような資料が下のリンクにあります。 http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=29

入江の埋め立ては江戸時代から行われ、明治以降にはさらに外側の東京湾で埋め立てが進んだので、このあたりの地形は激変しています。

博物館を出て、小さなトンネルをくぐり、称名寺の境内に入りました。近くに昔のトンネルも残っていますが、入り口は閉鎖されていました。

Img_9830sShomyoji Temple, Kanazawa-ku, Yokohama City

称名寺は山号を金沢山といい、13世紀後半に創建され、金沢北条氏の菩提寺として、大きな伽藍を備えていました。
現在の寺は江戸時代に復興されたもので、中世から残る建物はありませんでした。丘を背にした寺の場所や広い境内が金沢北条氏の権勢を示しているようです。

Img_9821s          北条貞顕供養塔(南北朝時代)

金沢八景駅の近くには平潟湾があり、海からの風は少し涼しいようでした。この湾も昔はもっと南西に入りこんでいて、六浦の港は現在すべて陸になっている京浜急行の線路の西にあったらしいです。

Img_9851sThere was the Mutusra Port nearby in the medieval time. It served Kamakura, the capital city during the Kamakura Era, from 13th to 14th century.

« 2015年7月 | トップページ | 2015年9月 »