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2015年7月20日 (月)

第二次大戦中のラブアン島とブルネイ湾

16日の記事で9M6/JJ0KRD局の運用計画を書きました。その続きです。

おぼろげな記憶で、大戦の初期ににラブアン島の飛行場が旧海軍の航空隊によって使われたことを読んだような気がして、気になり、調べてみました。

これは記憶違いだったようで、海軍の南の方への進出は、フィリピンのルソン島からスールー諸島のホロ島、ボルネオ島東岸のタラカンやセレベス島と、ラブアン島よりも東側のルートをとっていたようです。

九段下の昭和館に行くと、防衛庁によって公刊された戦史叢書全102巻の地名、人名、部隊名からの電子検索と記事の閲読ができます。
15日(水)に久しぶりに行って、有効期限が切れていた利用者カードを更新してもらい、「ラブアン島」を調べてみました。

150715_121931_s          昭和館

ラブアン島は、昭和17年1月1日にベトナムのカムラン湾から出た陸軍の部隊によって占領されました。その後は、最前線がずっと東方や南方にあったため、あまり重視されていなかったようです。
昭和19年6月にニューギニア北西端に近いビアク島の飛行場が連合軍に占領され、さらに7月にはサイパン島が攻略されて、フィリピン方面が危なくなり、その防衛にとってのボルネオ島北部の戦略的重要性が注目されました。
海軍が昭和19年の9月中旬にラブアン島に航空基地を設置することを命令し、急遽工事などが行われて、9月末から10月上旬に基地要員が派遣されました。ただ、当時はすでに資材や輸送手段の不足が厳しくなっていて、思うようには整備できなかったようです。

10月17日に連合軍がレイテ湾口の小島、スルアン島に上陸し、フィリピンの地上戦が開始されたときには、海軍の航空部隊は、すでに消耗していて、作戦を広域に展開するような兵力はなくなっており、ラブアン島の基地が海軍航空部隊によって実戦に活用されることはありませんでした。
ただ一回、連合軍のレイテ上陸作戦を阻止しようと、連合艦隊の戦艦、巡洋艦、駆逐艦等からなる遊撃部隊が10月18日、リンガ泊地を出発してレイテ湾へ向かったときに、護衛戦闘機隊の基地として使われています。
これは、遊撃隊の艦艇は、途中でどうしても給油が必要で、20日からブルネイ湾で油槽船を待ち、給油終了後の22日0800に抜錨、レイテ湾に向けて進撃をしましたが、その間の艦隊の護衛として、第三八一海軍航空隊(三八一空)の零戦8機(長谷川喜助大尉指揮)がラブアン島の基地に配置されました。

この三八一空の飛行隊長兼分隊長だったのが、30年前の日航ジャンボ機事故の際に上野村長だった黒澤丈夫氏(元海軍少佐)です。ボルネオ島東岸のバリクパパンに配備されていましたが、フィリピン作戦「捷一号作戦」発動にともない、上記の8機を含め計24機でマニラ進出を命ぜられました。下のリンクの記事にあるように、特攻隊用に飛行機を取られてしまうが、本人は内地に帰れたという、かなり生死紙一重の経験をされています。

神立尚紀「零戦最後の証言」1999、光人社、【聞き書き】第三八一海軍航空隊

栗田健男中将が率いた遊撃部隊の艦隊の戦闘のことは、レイテ沖海戦として有名なので、触れません。
ただ、ボルネオ島の北の南シナ海の状況を知る意味で、艦隊のブルネイ湾出港の翌日、10月23日の黎明におきた「パラワン水道の悲劇」のことだけは書いておきます。
艦隊は出港後、米機動部隊に発見されにくいパラワン水道の航路をとりましたが、米軍の潜水艦、ダーター、ダースの2隻に発見されました。夜間に燃料節約で減速したために、追い越されて夜明けの視界がききはじめる時間に、良い位置から雷撃され、0633に栗田中将の乗る旗艦の重巡洋艦愛宕に4発の魚雷が命中し、愛宕は沈没しました。1分後には同じ第4戦隊の2番艦高雄に魚雷2本が命中して航行不能になり、離脱せざるを得なくなりました。さらに20分後の0657、3番艦摩耶に魚雷4本が命中し、摩耶は轟沈してしまいました。
これはまさにブルネイ湾北東のパラワン水道の航行可能海域の幅がスプラトリー諸島/南沙諸島の存在のために狭まっているために起きたことといえるでしょう。
また、高雄を追撃していたダーターは、夜間に航行目標を失い、翌日未明に南沙諸島のボンベイ礁で座礁してしまいました。

ラブアン島には、昭和20年6月になって、連合軍が上陸作戦を行い、守備していた陸軍独立歩兵第371大隊(約430名)は玉砕しました。

(主として戦史叢書第37巻「海軍捷号作戦<1>」、同第56巻「海軍捷号作戦<2>」によっています。)

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コメント

NOBIさん、いろいろと情報ありがとうございます。ラブアン島について現地に行って資料があれば貰ってきます。玉砕された場所に記念碑があるのではないかと思います。ブルネイも船で近いのですが、今回はライセンスが無いのでコタキナバルに行きますが、地震の被害で山周辺の観光地は閉鎖されているそうです。 とりあえず行ってきます。コンデションは良いか悪いか不明ですが、バンドがオープンすることを願っています。 Kat

BXHさん、こんばんは。
あまり気にしないで楽しんできてください。
それにしても、戦争の大勢が決まったあとに、本土から遠く離れた小島で孤立無援の戦闘を行わざるを得なかった部隊があったのは悲しいことですね。

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