Links - Locals

  • ex J3CK, JP1JCK
    The original owner of the TS-850S in my shack. SK, Nov. 30, 2015. RIP.





2021年8月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

2015年6月

2015年6月26日 (金)

昔のSWLログ Old Logbook of My SWLing

先週の土曜日、20日はちょっと都合が悪くて、いつもの28メガでのローカルラグチューはしませんでした。日曜日にJA1DLN局からメールがあり、一日遅れで同じ時間帯に出ても良いとのことでしたので、せっかくのことなので、交信をお願いし、2100JSTから約1時間、お話ができました。先日の記事で紹介したOMとのこの日の話題は、主に50メガのことでした。その前の週のクラブ員間のメールで、50メガのEスポ伝搬やEスポ発生の早期検知方法についてたくさんのインフォが行き交っていたからです。

当局は現在50メガのアンテナがないし、過去もあまり出たことがありませんが、話をしているうちに、大昔にSWLを始めたころ、3A5というミニチュア双3極管で50メガの超再生トランシーバーを作り、バンドを受信していたことを思い出しました。たしかログもつけていて、デスクの横の書棚に置いてありました。

Img_9766_2

A6サイズの小さなノートです。DLN局のお話を聞きながら、開いてパラパラとめくって見ました。すると、驚いたことに当のJA1DLN局のコールがあるではありませんか。

Img_9764s
1959年の12月6日で、もっともらしくRSが書いてありますけれど、単球ですからもちろんSメーターなどなく、耳Sです。DLN局はこの頃すでに現在と同じQTH、当方は今のところから5~6km南に住んでいました。DLN局も古いログはお持ちだそうですが、押入れの中で簡単には確認できないとのことです。ただ、相手の局のコールはご存じで、同じ会社の洗足にお住まいの方だったとのことです。
当時はアマチュア無線が盛んになりつつあり、太陽黒点も多くて、このページにもあるように50メガでVKと交信している局がしばしば聞こえました。面倒くさい受験や免許申請を経ないで、他人のコールやそれらしいコールで出てしまう人もままあったようですが、相手局から見て、そのような交信ではなかったようです。
当方は、たしかTVフィーダーでフォールデッド・ダイポールを作り、木の角材に固定して、軒の高さくらいに上げていました。ただ、土地が東南に向けて傾いていた場所で、玄関からは1階なのですが、アンテナの場所では地面から2階の高さがあり、南や東の方は割に良く聞こえたと思います。
このリグの作り方を教えてくれたのが、当局のJAFF-013、上信越高原国立公園移動(浅間山北麓移動)をサポートしてくれた現(昨年開局)JI1DKI局です。
トランシーバーで、送信も可能でしたが、乾電池電源で微弱出力でしたし、もう時効でしょう。お互いにまだ中学生でした。ノートの字がつたないのもそのためです。
VKなど外国の信号を聴いてみたいとワッチしていたようです。ただ、確実にDXだというシグナルを捉えらた記録はありません。やはり単球超再生では感度が不足なのと、英語力も足りなかったのでしょう。

2015年6月24日 (水)

オールアジア・コンテストCW All Asian DX Contest CW, 2015

今年も週末のオールアジア・コンテストにお気楽スタイルで細切れに参加しました。昨年とほぼ同じ58交信でした。今年はランニングで55、S&Pで3で、ほとんどワッチをしない、ますますレイジーな運用でした。バンドは21メガです。
20日(土)、21日(日)ともJSTの夜遅くにヨーロッパと同時に北米も開けるコンディションでした。この時間帯の北米は3局でしたが、プリンス・エドワード島のVY2ZMに呼んでもらえたのはラッキーでした。PEIはたぶん初めてと思います。
一番調子が良かったのは、20日の2320JSTあたりからで、約25分間に21局と交信できました。最小設備の当局としては上出来でした。
北米は、日曜の朝はだめでしたが、月曜の終了間近、0830J過ぎにCQを出したところ、6局と交信できました。

同い年の局: SP4AWE, VE7CC
YLオペレーター: UD3D
最高齢: W7OM (80)

日曜日のローカル交信のことも書いたのですが、「保存」に失敗して、消えてしまったので、改めて書きたいと思います。

2015年6月19日 (金)

「海街diary」 "Our Little Sister"

アマチュア無線局のデータベース、”QRZ.com”には、神奈川県藤沢市生まれと記載しています。生まれただけではなく、事情があって、春、夏、冬の学校の休みは、片瀬海岸で過ごすことが多かったので、あれこれ思い出もあり、懐かしい場所なのです。片瀬からは近くの鎌倉にもときどき行っていました。
そんなことで、是枝裕和監督の映画、「海街diary」のことがテレビで流れ、鎌倉で暮らす四人姉妹の話だということを知って、見たくなりました。
しかも、先日、ある文芸評論家・作家の自伝的小説を読んだのですが、この人は、大戦の開戦の少し前から戦後の昭和23年までの少年時代を鎌倉の極楽寺で過ごしていたのです。映画の舞台が鎌倉市極楽寺ということで、どのように撮られているかにも興味を持ちました。
13日(土)が封切りでしたので、一昨日、17日(水)に見に行ってきました。

Inamura_cape_etc_sCape Inamura and the cove in front of Kamakura. The seaside community is the main stage for the new movie titled "Umimachi Diary," or "Seaside Town Diary," English title "Our Little Sister."
江の島から鎌倉方面を望む。映画の舞台の極楽寺は、画面の左端、稲村ヶ崎に続く丘の手前と思います。もう少し左の七里ヶ浜が見える写真を探しましたが、見つかりませんでした。稲村ヶ崎と右の方の逗子との間の湾の奥が由比ヶ浜と鎌倉中心部です。(2009年11月撮影)

上に書いた理由はうそではありませんが、正直にいうと、半ばエクスキューズです。大河ドラマ「八重の桜」で見ていた綾瀬はるかと、いつだったか年末年始のテレビでの映画番組で見て注目していた長澤まさみが出演するということで、これは見なくてはと思いました。
姉妹の残り二人の役の夏帆と広瀬すずは、知らなかったばかりか、夏帆は「なつほ」と読むのだと思っていました。

期待通り、ノスタルジアを癒してくれ、ほのぼの感も味わえた上、姉妹の四人ともきれいで、それぞれ演技も上手だったし、見終わって満足できる良い映画でした。 我が家の隊長も誘ったのですが、忙しいし眠くなるから行かないと、断られてしまいました。

大学生のころまでは、和風建築の家で育ったので、四姉妹の暮らす和風住宅にも懐かしさを感じました。もっとも当方の年齢でも、東京では椅子とテーブルを置いた板の間で食事をしていたので、食事までちゃぶ台でする四姉妹の暮らし方はやや現実離れしているかも知れません。
外国の観客を意識したサービスなのかも知れませんが、サービスの度が過ぎると媚びているように見られるかも知れません。 ちなみに、木質系ホーム・ビルダー(ハウス・メーカー)のS社が提携スポンサーとのことで、映画の開始直前にコマーシャルが流れました。2年前に拙宅を建て替えたときに世話になった会社でした。

梅の実を集めて梅酒を作って飲むなど、レトロな小道具が散りばめてあって、本当に昔が懐かしくなります。釜茹で(釜揚げ)しらすも出てきますけれど、こちらは、湘南にいたときに普段に食べたことはなく、観光客用の食べものだと思っていました。本当の地元の方々はどうなのでしょう。

ただ、話がたんたんとしていて、メリハリがなく、今一つ心を動かすようなものが感じられませんでした。これではカンヌ映画祭で入賞ができなかったのも仕方がないでしょう。極言すれば、美しい動画ファイルがスライドショーのように連続して流れてくる感じです。
漫画の原作を読んだ人は知っているのかも知れませんが、四女、三人姉妹の腹違いの妹、「すず」が、実母が姉三人から父を奪ったということを気にして、なかなか三人に溶け込めないという設定らしいのですけれど、そのことはあまり伝わってこないし、話としても無理があるように思います。実母が死んでしまい、可愛がってくれた父も死んでしまって、寂しくてひどく落ち込んでしまったというのなら分かりやすいのですが。

葬儀や法事で出演者が喪服の場面が3回ありました。一般に女性の喪服姿はきれいですが、表情やしぐさの美醜が目につくところでもあります。出演者たちはうまくこなしていたと思います。

長女「幸」の恋人役に堤真一が出てくるキャスティングはちょっとがっかりで、好演している綾瀬はるかが気の毒に感じました。演技はうまいので、本人には何も責任がありません。ただ、「ALWAYS 三丁目の夕日」のイメージが強く、他のもろもろの出演もなんとなく思い出して、またかと思ってしまいました。

長澤まさみも好演しています。最後の方の場面で、綾瀬と長澤が一緒に映るところで、綾瀬ほどは色が白くないことが分かる感じだったのも、ちょっと気の毒でした。ちょっとした光の当たり具合かも知れませんけれど、主演であれば分からないことが見えてしまいます。以上、若手女優陣にちょっと甘くなってしまったかも知れません。

2015年6月17日 (水)

大森貝塚 Omori Shell Mound

明治10年(1877年)の今日、6月17日にアメリカの生物学者、エドワード・S・モース(モールス)(Edward S. Morse)は、日本で腕足動物の調査をするため、横浜に到着しました。
翌々日の6月19日に横浜から鉄道に乗り、新橋に向かいました。列車は途中、前年に開設されていた大森駅で停車したと思われます。大森駅を発車して間もなく、左側の崖に貝殻の層があるのを見つけました。
鉄道が開通してからまだ5年で、当時の工事ですから、線路を敷くために行った切土にまだあまり草なども繁らず、断面が見えていたのでしょう。幼時からメイン州の海岸で貝類の採集などをしていたモースは、この貝の層に興味を持ち、約3月後に調査のためにこの場所を訪れ、発掘をしたそうです。
これが日本の考古学の出発点となった、有名な大森貝塚の発見でした。

先週末、13日(土)にこの大森貝塚をはじめてゆっくり見ました。ここの線路は何度も通っていて、線路脇にある二つの大きな記念碑を目にしていたかも知れませんが、現代の電車は速度も早く、見た記憶がありません。

大森駅から西側の高台の方へ出て、駅前の南北の大通りを北の方へ数分進み、ビルとビルの間の狭い通路を通って線路脇に出ると、背の高い記念碑がありました。

Img_9728s

The second monument comemorating the discovery of the Omori shell mound, built in 1930 in Ota-ku. Tokyo.

この記念碑には「大森貝墟」と書いてあり、裏には昭和5年(1930年)と建立年が書いてありました。ここは大田区です。建てられたころは大森区でした。

大通りに戻り、少し低くなったところから北へまた坂を上がると、「品川区立大森貝塚庭園」があります。ここは道路と線路の間が全部公園で、線路脇、駅に近いほうの公園の隅に、もう一つの記念碑がありました。これは横長で、上に縄文土器の形の飾りが載っていました。

Img_9739s

The first monument in Shinagawa-ku, built in 1929.

こちらは、昭和4年竣工となっていましたので、大田区側のものよりも1年古いものです。
どうも、モースが1925年、大正15年に死んだことが記念碑建造のきっかけだったのではないかと思われますが、最初の貝塚の調査から50年余が経ち、実際の場所がどこだったのか、はっきりしなくなっていて、二つの記念碑になったらしいです。大森貝塚ということで、大森区(大田区)住民が自分の方が真正の大森だと頑張ったのではないでしょうか。

戦後の調査で、現在では、後の方の品川区の方がモースが調査した場所だとわかったようです。

大森貝塚庭園には、貝の層が見られるように覆いをつけた観察用の穴が作ってありました。

Img_9738s

A shell layer is seen in the earth about 50cm deep here in a exhibition hole.

今までは、貝塚は古代人が場所を決めて捨てた貝や土器などが積もったもので、その捨て場所に当たらないと見つからないのだと思っていました。ここの場合はどうもそうではなく、長い年月の間、採取した貝などをあたり構わず投げ捨て、それが積もり積もって丘の上全体を層になって覆っていたようです。この点は、実際に見て、認識を改めました。「塚」、英語でも"mound"といっていますが、ややミスリーディングな呼び方と思います。
貝殻がどの辺りまで広がっているのか、良く分かりませんが、少なくとも線路の方が昔の海だったようなので、海側斜面はほとんど貝の層に覆われていたのでしょう。

Img_9735s
Edward S. Morse, who discovered the Omori shell mound on June 19, 1877. He left big foot prints in Japan's biology and archaeology. He was born in Maine, United States.

ここの庭園(公園)にはモースの胸像もありました。モースはお雇い外国人として来日したと思っていましたが、この点も違っていたようで、来日後に設立されたばかりの東京大学で教えることを引き受けたとのことです。もっとも急に滞在期間を長くするとは考えにくいので、来る時からチャンスがあるなら日本で職を持って調査をしようというつもりだったのかも知れません。

明治政府も、軍事や交通(灯台、鉄道)、建築などの実用性のある部門は早くからお雇い外国人を招いたものの、純粋の学術方面はどうして良いかよく分からなかったのかも知れません。モースの場合は、自身の調査をしたいという意欲が当時の必要とうまくマッチした幸運なケースだったのでしょう。

なお、電信に使われるモールス信号のモールスは、英語の綴りは"Morse"で、モースと同じですが、サミュエル・F・B・モールスという別人です(1791年 - 1872年)。

大森の駅の周辺にかなりの高低差があり、大田区側の記念碑と品川区側のそれとの間の区境のところは、今は暗渠になっていますが、小さい川があったようです。品川区側は大井という地域で、大井町駅にもその名が使われています。そんなことも今回はじめて知りました。この区境の近くに4月から長男夫婦が一緒に住みはじめたので、我が家の隊長が「お父さんが見たいといっている」と勝手にメールして、土曜日に二人して押しかけていった次第です。

2015年6月12日 (金)

最近の無線交信 Recent Radio Contacts

このところ、外出や読書が多く、無線のほうはあまりアクティブでありませんが、週末などにちチョコチョコと電波を出しています。

・WPXコンテストCW 5月30日(土)にJY9FCとナンバー交換ができました。あとはときどき21メガでCQを出して見ましたが、ほとんどコールがなく、コンテストナンバーは019で終わりでした。

・ローカル・ラグチュー 6月6日(土)は、午後9時(J)から28.350でいつものラグチューをしました。この日はJA1DLN局ほか2局、当局を入れて4局でした。
JA1DLN局は、ローカルのクラブ会員ですが、QTHは同じ区ではなく、当局から約10kmほど西ですけれど、クランクアップ・タワー上のSteppIrをお使いなので、たいへん強い信号が届きます。クラブに入られたのは相当前のことで、いきさつを忘れてしまいましたが、たしかこのブログにリンクがあるex JP1JCK、J2CK局に大学で教わられた縁で入られたと記憶しています。学校だけでなくお仕事も電波関係のものでしたので、当局のような文系、オペレーション主体の無線局長とはレベルが数段違い、お話を聞いているとたいへん勉強になることが多く、このところ良く参加してくださるのは、ほんとうにありがたいことです。
アマチュア無線も、JA1A○○のコールで始められ、アメリカに留学されている間に切れてしまったので、改めて申請して現在のコールになったのだそうで、年季が違います。
土曜日のお話の中では、アメリカにいたときにW6SAI局と会ったことがあり、アンテナのことのほか、仕事に関係のあった真空管のことも話をされたということが出ました。当時、W6SAIは、EIMAC に勤めていたそうです。JAで、彼の本を参考にした無線家はかなりいたでしょうけれど、実際に会ったことがある人は稀でしょう。
当局は、なんとなくこのコールに見覚えがあって、リグの横の書棚から、唯一の英文の無線関係書籍である"Beam Antenna Handbook: Everything You Want to Know about Beam Design, Construction, Operation"を引き出して見たら、William I. Orr, W6SAI と著者名が書いてあり、かろうじて話題に参加することができました。

Img_9718_2s

Img_9720_2s
白状しますと、この本はパラパラとめくって見た程度で、読んではいません。1979年-1982年にアメリカにいたとき書店で見つけて、将来参考になるかも知れないと買ったもののようです。
QRZ.comによると、現在、W6SAIは、Orrさんの功績を記念するクラブ局になっています。

JA1DLN局は、JAのSSBのパイオニアの一人でもあり、自作した送信機でDX交信をされていたそうですが、当時はJAでSSBを出せる人はレアで、W相手に交信を始めるとコールが止まず、マネージャーを頼んでQSL発行をされたそうです。もっとも、14メガには当時、JA1BK、JA1AEAなどの大物がいたので、21メガの4エレ八木を上げて出ておられたそうです。
1週前にはオーディオのことを伺いましたが、その道もずい分深く極められて、サファイア針を自作されたという、びっくりするようなお話もありました。

・OX/DK1BT 上記のラグチューの後、21メガを聞いてみたら、パイルがありました。14Zごろ少し参加したのですが、とても無理なので、諦めました。15Z過ぎにまた聞いてみたら、前より強くなっていて、パイルも小さくなっていたので、数回呼んだら、幸いとってもらえました。

・IARUリージョン1 フィールドデー 7日00J、(6日15Z)から始まったので、3局交信し、7日(日)にもときどきコールして、ポータブル局ばかり12局と交信しました。あちらの移動局がこちらのミニマムな設備からの信号をどの程度拾ってくれるか、興味がありました。呼べる程度の強さで聞こえている局の8割ほどは拾ってくれました。
土曜日はWWFFのグリーン・デイというコンテストもあったのですが、21メガではどこも聞こえませんでした。

・JA1コンテスト 7日(日)の午前は国内コンテストが重なっていたようですが、JA1コンテストで、JCC100114をサービスしてみようかと、2局ほど呼んだ後はランニングをしてみました。勧進元のJA1ZLO(21担当は新入部員なのか、ストレート・キーらしいQRSでした。)など、7局をログしました。

2015年6月 2日 (火)

JAFFリスト改訂版公開 JAFF List Revised

4月19日の記事で、最近の国立公園、国定公園の変更について紹介しましたが、一昨日にWWFFのホームページで公開された6月版の改訂WWFFリストで、これらの変更がJAFFナンバーに反映されました。当ブログのウェブページ "General Information" の中のリストもこれにあわせて改訂しました。

4月から、WWFFナンバーを管理しているI5FLN局に変更を申請し、5月版にほとんどが反映されたのですが、連絡の行き違いから一つ積み残しがあって、今回でいちおう一件落着となったはずです。

なお、自然公園の名称変更などに関しては、WWFFの方針として、旧名称でアクティベーションがあった場合には、その番号は削除して新しい番号を付け、アクティべーションがなかった場合は、前からの番号のまま新名称とするようにしているそうです。旧「陸中海岸国立公園」など、ログはWWFFに送られていませんが、過去にアクティベーションがあり、QSLも発行されていると思いますので、後継の「三陸復興国立公園」には新しいナンバーを付けてもらいました。

当方のウェブページのリストは、ページに表を載せる方法が分からなかったので、JPEGのイメージファイルを作って載せていましたが、今回は前のやり方を忘れてしまって、国定公園の方がどうしても以前のようにできませんでした。このため、ブログ作成方法のFAQから、表の載せ方を調べ、「エクセルシートをHTMLテーブルに変換しちゃう君 (ββ)」というものを利用して、HTMLの編集で載せました。国立公園と国定公園でスタイルが違うのはそのためです。

環境省の国立公園ホームページの英語版は改訂が遅れていて、同省の公式のローマ字表記などがすぐには分かりませんが、国立公園のパンフレットは改訂されていますので、これにあわせています。今回、ローマ字表記の環境省方式への統一も、優先度は低いけれどと断って、いちおう提案したのですが、原則として従来のままになりました。
長い公園名をローマ字で表記するときにどういう形が良いのか、必ずしも決定的なルールがなく、いろいろな方式が混在しています。オリンピックの開催などもあることですし、もう少し研究されても良い課題かと思います。
自然公園名で多いのは、「○○海岸」、「○○高原」などで、環境省方式は、全体が固有名詞と見て、続けて書き、スペースやハイホンは使わないのが原則です。WWFFのリストでは、スペースを入れて、"Kaigan"のように大文字も使っていることが多いようです。

Togakushi冬の戸隠連峰。鏡池より。妙高戸隠連山国立公園、JAFF-094。
Togakushi Mountain Range in the new Myoko-Togakushi renzan National Park, JAFF-094.
Photo by Maringo in winter, 2009.

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »