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2013年7月 4日 (木)

江古田原沼袋古戦場 Egotahara-Numabukuro Battlefield

日曜日に石神井城跡へ行きましたが、この城は文明9年(1477年)に落城して廃墟となりました。城主の豊島氏は、同年4月13日(陽暦5月25日)に現在の東京都中野区沼袋、同江古田の辺りで行われた太田道灌との戦いで敗れ、城に逃げ込みましたが、城も破られ、当主の豊島勘解由左衛門尉泰経は逃亡し、その後行方不明になってしまいました。

この戦いの結果、石神井川流域を中心とするそのころの豊島一族の所領は、太田道灌に支配されるようになってしまいました。

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石碑の裏には、「・・・道灌江戸築城以来茲に五百年・・・」と書いてあり、昭和31年10月に立てられたもので、ここでの勝利がその後の道灌の活躍に繋がったことに着目した、道灌顕彰の意味合いを持ったもののようです。

Img_6127s

石碑は、右手の護岸の上の茂みにあります。左が妙正寺川、右が江古田川で、ちょうど二つの川が合流するところです。妙正寺川は、このあたりで大きく北にふくらむように蛇行していて、流れが最も北に来たあたりで、江古田川が合流しています。台地面と川岸では10メートルくらいの高度差があり、なかなか複雑な地形です。500年前のころは、沼地や原野、雑木林が多かったのでしょうから、軍勢をうまく統率しないと有利に戦えなかったでしょう。

ちょっと驚いたことに、この戦いだけで一冊の本が出ています。

その名も「決戦」です。(副題『豊島一族と太田道灌の闘い』、葛城明彦著、ブイツーソリューション刊、2012年)

今までの通説には、引用史料の点で問題があるとし、文献としては同時代に書かれた「太田道灌状」のみが信頼できるとして、むしろ、地形やいくつか残っている合戦での死者慰霊のための塚、地元寺社に残る言い伝えなどから、戦闘の経過を推理していて、それなりの説得力を感じました。この本によると、道灌は、まず豊島方の練馬城(現在の豊島園)を少人数で攻めて焼き討ちにし、くみし易い小兵力しかないと見せかけて、練馬城と石神井城から出て攻めてきた豊島勢をこのあたりで待ち伏せして、勝利したとしています。ほかの場所での道灌の戦い方から、正攻法で城に攻めかかったりはしないで、策略を用いて、戦いには必ず勝ったそうです。

戦争に至るまでの豊島氏側と太田道灌側の勢力争いなど、背景も分かりやすく書いてありました。

The lord of the Shakujii Castle, Toshima Yasutsune, was defeated decisively at the battlefield of Egotahara and Numabukuro on May 25, 1477 by the forces of Ota Dokan, the lord who built the Edo Castle in 1457. Toshima family lost the Shakujii Castle shortly. This place happens to be close to my home. A stone monument is at the confluence of the Myoshoji River and the shallow Egota River. This battlefield is about seven kilometers east of the Shakujii Castle.

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