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2013年2月23日 (土)

「マクドナルド『日本回想記』」 Ranald MacDonald

寒い季節でもあり、本の記事が続きます。

日本の島は、西南の沖縄はちょっと縁があって大部分の島に行ったことがあるほか、西北の対馬、日本海の佐渡、南は御蔵島、三宅島に行ったことがありますので、次に機会があれば北方の島に行ってみたいと、前から少し情報を見ています。ペリーが来る前に利尻島に上陸し、長崎でオランダ通詞たちに英語を教えたアメリカ人がいたということが分かって、それなら、別に興味を持っている開国の頃の歴史やペリーのこととも関係するので、有力候補にしています。

先日、たまたま古本屋で、「マクドナルド『日本回想記』-インディアンの見た幕末の日本〔再訂版〕」、ウィリアム・ルイス、村上直次郎編、富田虎男訳訂、2012年、(1979年初版)、刀水書房刊、を見つけ、図書館から借りて読みました。この本は、まさに上陸した本人であるラナルド・マクドナルドの回想なので、なぜ来たのか、どういうふうにして上陸したのかなど、細部が良く分かりました。

もう一つ、興味深いと感じたのは、彼の生い立ちやアイデンティティーのことです。生地は、北アメリカ西北部の大河であるコロンビア川の河口近くの左岸のアストリアというところで、現在ではアメリカのオレゴン州なのですが、出生当時は、英国(グレートブリテン・アイルランド連合王国)とアメリカ合衆国が雑居のような形だったようです。父親は英国側のハドソン湾会社のトレーダーとして、はるばる太平洋岸まで来ていたので、ラナルドが生まれたときは英国人だったわけです。カナダはまだなく、カリフォルニアもメキシコ領だった時代です。

そんなに遠くまで来る白人女性がいなかったことや、インディアンとの取り引きに有利だったためか、父親のアーチボルドは、地元のインディアンのチヌークの王女と結婚して、ラナルドが生まれます。これは、間宮林蔵がアイヌとの間に子供を持ったのと似ています。父親は、教育に熱心で、自宅で自ら教えた後、ラナルドが10歳のころに、彼を2,000マイル離れたレッド・リバー(現ウィニペグ)にある「一番近い」学校に送ります。4年後、彼は、さらに東のエリー湖の北にあるセント・トーマス(現在のオンタリオの都市)に行き、銀行員になりますが、適応できません。出奔して船乗りになったりし、世界を放浪するようになります。

日本へ来た後、北米に帰ってからは、主にアメリカのワシントン州で暮らしたようですが、生地がアメリカに属することになったのは、彼の放浪中のことで、終生、英国人という意識も捨てられなかったようです。しかし、幼時に母方の家族に可愛がってもらったことはあるようですが、少年時代の環境からみて、「インディアン」という自己認識を持っていたとはいいがたく、本の副題には少し無理があるように思います。本でも触れられていますが、混血であるが故に差別されることがあったようですけれど、インディアンの言葉や文化を身につけていたとはいえないでしょう。他の難船の乗組員と違い、当時としてはかなり高度な教育を受けていて、知識欲も強かったために、長崎での約半年の間に、森山栄之助をはじめ14人ほどの日本人に英語を教えることになったと思われます。

父親のアーチボルドは、スコットランド西部、キンタイア半島の北岸が内陸に深く切れ込んだあたりのグレンコー付近の出身でした。スコットランド出身者の子供がはじめて日本人に英語を教えた約20年後に、わが国はスコットランド出身のブラントンに灯台の作り方などを教わることになることも、ちょっと面白い因縁です。

利尻島のマクドナルド上陸記念碑の写真のあるページへのリンク

利尻 野付展望台


(補)マクドナルドは、一般にはアメリカ人とされていますが、日本渡航の時点で、何人というのが正しいのか、微妙です。英領時代のカナダから英国人として出奔し、放浪している間に生地が合衆国に帰属することになりました。合衆国の捕鯨船に乗って日本沿岸まで来て、合衆国軍艦で日本を離れたので、外見的にはアメリカ人と見えます。しかし、回想記の原稿は、オタワに住んでいた、マルコム・マクラウドという友人に送り、刊行を依頼しています。マクドナルドが晩年まで強く待ち望んでいたにもかかわらず、ついに生前には出版されませんでしたが、もしマクドナルドが明らかなアメリカ人で、アメリカで刊行しようとしていたなら、ペリー来航時に通訳を勤めた森山栄之助にネイティブ・スピーカーとしては初めて英語を教えたのですから、ペリーによる開国と関連付けられて、もっと早く世に出ていたのではないでしょうか。このケースでは、アメリカ人という言葉を英語を使う北米の人くらいの広い意味で考えておいたほうが良さそうです。

(補 2.)利尻島の記念碑の碑文のあるページ

http://www.town.rishirifuji.hokkaido.jp/people/pdf/notsuka-macdonald-monument.pdf

利尻島の記念碑に、アメリカ人、オレゴン州州生まれとなっているようですが、残念ながら、上記に照らし、やや不正確だと思います。

(補 3.)マクドナルドの供述(2月27日記)

ウィキペディアにリンクがある、マクドナルド本人のプレブル艦長グリン中佐に対する供述を読んでみました。これによると、マクドナルドは、アメリカ、イギリス両国のどちらの船によっても救出されるよう、出身国を意識的にあいまいにしていたことが分かります。なお、生地を Astoria, Oregon といっていますが、英文別記事の年表で明らかなように、生まれたときにはオレゴンは英米の共有状態で、オレゴン準州(Territory)もオレゴン州もまだなく、「オレゴン州」と書くのなら、「現在の」と付記すべきでしょう。

以下は、長崎奉行から尋問されたときの回答を述べた部分の原文抜粋です。

I was born in Astoria, Oregon;

The Japanese inquired my name, my place of birth, and port from whence I sailed, and my place of residence. I answered them Oregon, New York, and Canada, with the hope that in the event of an American or English vessel arriving here, either of them would take an interest in me, and that I might be restored to my own liberty, and for the opportunity of giving information to the people of the United States that some of their countrymen were in prison for life.

"Deposition of Ranald McDonald regarding his imprisonment in Japan, made to Captain James Glynn, USS Preble"
http://www.sos.wa.gov/history/publications_detail.aspx?p=95

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