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2013年2月

2013年2月23日 (土)

Chronology with regards to Ranald MacDonald

*Ranald MacDonald, 1824-1894             

Father, Archibald McDonald was born at Leechkentium, near Glen Coe, Argyllshire, Scotland                                       1790/02/03(yyyy/mm/dd)

Ranald MacDonald was born             1824/02/03

Attended a school at Red River (Winnipeg)  1834

Moved to St. Thomas (in Ontario)      1838

Left St. Thomas                             1841  (summer)

Left New York aboard the whaling ship Plymouth, 425t
                                                   1845/12/06

Left Sandwich Islands (Hawaii)           1847  (autumn)

Disembarked from the Plymouth, landed Yagishiri Island  1848/06/27

Landed Rishiri Island at Notsuka               1848/ 07/02    

Landed Nagasaki via Soya and Eramachi    1848/10/13

Left Nagasaki aboard USS Preble commanded by Commander James Glynn
                                                   1849/04/27

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*History of the Pacific coast regions of North America

The United Kingdom of Great Britain    1707

The United Kingdom of Great Britain and Ireland   1801

Treaty of 1818                                1818
  coexistence of Oregon Country (U.S.A.)
  and Columbia District of (British) Hudson's Bay Company

Oregon Treaty signed                       1846/06/15

  The 49th parallel border except Vancouver Island agreed

Treaty of Guadalupe Hidalgo             1848/02/02
  California belongs to the U.S.A.

Oregon Territory, U.S.A.                   1848

Colony of Vancouver Island              1849

California Statehood                       1850

Washington Territory, U.S.A.             1853

Colony of British Columbia               1858

Oregon Statehood                          1859

Canadian Confederation                  1867

Britishi Columbia joined Canada        1871

       

「マクドナルド『日本回想記』」 Ranald MacDonald

寒い季節でもあり、本の記事が続きます。

日本の島は、西南の沖縄はちょっと縁があって大部分の島に行ったことがあるほか、西北の対馬、日本海の佐渡、南は御蔵島、三宅島に行ったことがありますので、次に機会があれば北方の島に行ってみたいと、前から少し情報を見ています。ペリーが来る前に利尻島に上陸し、長崎でオランダ通詞たちに英語を教えたアメリカ人がいたということが分かって、それなら、別に興味を持っている開国の頃の歴史やペリーのこととも関係するので、有力候補にしています。

先日、たまたま古本屋で、「マクドナルド『日本回想記』-インディアンの見た幕末の日本〔再訂版〕」、ウィリアム・ルイス、村上直次郎編、富田虎男訳訂、2012年、(1979年初版)、刀水書房刊、を見つけ、図書館から借りて読みました。この本は、まさに上陸した本人であるラナルド・マクドナルドの回想なので、なぜ来たのか、どういうふうにして上陸したのかなど、細部が良く分かりました。

もう一つ、興味深いと感じたのは、彼の生い立ちやアイデンティティーのことです。生地は、北アメリカ西北部の大河であるコロンビア川の河口近くの左岸のアストリアというところで、現在ではアメリカのオレゴン州なのですが、出生当時は、英国(グレートブリテン・アイルランド連合王国)とアメリカ合衆国が雑居のような形だったようです。父親は英国側のハドソン湾会社のトレーダーとして、はるばる太平洋岸まで来ていたので、ラナルドが生まれたときは英国人だったわけです。カナダはまだなく、カリフォルニアもメキシコ領だった時代です。

そんなに遠くまで来る白人女性がいなかったことや、インディアンとの取り引きに有利だったためか、父親のアーチボルドは、地元のインディアンのチヌークの王女と結婚して、ラナルドが生まれます。これは、間宮林蔵がアイヌとの間に子供を持ったのと似ています。父親は、教育に熱心で、自宅で自ら教えた後、ラナルドが10歳のころに、彼を2,000マイル離れたレッド・リバー(現ウィニペグ)にある「一番近い」学校に送ります。4年後、彼は、さらに東のエリー湖の北にあるセント・トーマス(現在のオンタリオの都市)に行き、銀行員になりますが、適応できません。出奔して船乗りになったりし、世界を放浪するようになります。

日本へ来た後、北米に帰ってからは、主にアメリカのワシントン州で暮らしたようですが、生地がアメリカに属することになったのは、彼の放浪中のことで、終生、英国人という意識も捨てられなかったようです。しかし、幼時に母方の家族に可愛がってもらったことはあるようですが、少年時代の環境からみて、「インディアン」という自己認識を持っていたとはいいがたく、本の副題には少し無理があるように思います。本でも触れられていますが、混血であるが故に差別されることがあったようですけれど、インディアンの言葉や文化を身につけていたとはいえないでしょう。他の難船の乗組員と違い、当時としてはかなり高度な教育を受けていて、知識欲も強かったために、長崎での約半年の間に、森山栄之助をはじめ14人ほどの日本人に英語を教えることになったと思われます。

父親のアーチボルドは、スコットランド西部、キンタイア半島の北岸が内陸に深く切れ込んだあたりのグレンコー付近の出身でした。スコットランド出身者の子供がはじめて日本人に英語を教えた約20年後に、わが国はスコットランド出身のブラントンに灯台の作り方などを教わることになることも、ちょっと面白い因縁です。

利尻島のマクドナルド上陸記念碑の写真のあるページへのリンク

利尻 野付展望台


(補)マクドナルドは、一般にはアメリカ人とされていますが、日本渡航の時点で、何人というのが正しいのか、微妙です。英領時代のカナダから英国人として出奔し、放浪している間に生地が合衆国に帰属することになりました。合衆国の捕鯨船に乗って日本沿岸まで来て、合衆国軍艦で日本を離れたので、外見的にはアメリカ人と見えます。しかし、回想記の原稿は、オタワに住んでいた、マルコム・マクラウドという友人に送り、刊行を依頼しています。マクドナルドが晩年まで強く待ち望んでいたにもかかわらず、ついに生前には出版されませんでしたが、もしマクドナルドが明らかなアメリカ人で、アメリカで刊行しようとしていたなら、ペリー来航時に通訳を勤めた森山栄之助にネイティブ・スピーカーとしては初めて英語を教えたのですから、ペリーによる開国と関連付けられて、もっと早く世に出ていたのではないでしょうか。このケースでは、アメリカ人という言葉を英語を使う北米の人くらいの広い意味で考えておいたほうが良さそうです。

(補 2.)利尻島の記念碑の碑文のあるページ

http://www.town.rishirifuji.hokkaido.jp/people/pdf/notsuka-macdonald-monument.pdf

利尻島の記念碑に、アメリカ人、オレゴン州州生まれとなっているようですが、残念ながら、上記に照らし、やや不正確だと思います。

(補 3.)マクドナルドの供述(2月27日記)

ウィキペディアにリンクがある、マクドナルド本人のプレブル艦長グリン中佐に対する供述を読んでみました。これによると、マクドナルドは、アメリカ、イギリス両国のどちらの船によっても救出されるよう、出身国を意識的にあいまいにしていたことが分かります。なお、生地を Astoria, Oregon といっていますが、英文別記事の年表で明らかなように、生まれたときにはオレゴンは英米の共有状態で、オレゴン準州(Territory)もオレゴン州もまだなく、「オレゴン州」と書くのなら、「現在の」と付記すべきでしょう。

以下は、長崎奉行から尋問されたときの回答を述べた部分の原文抜粋です。

I was born in Astoria, Oregon;

The Japanese inquired my name, my place of birth, and port from whence I sailed, and my place of residence. I answered them Oregon, New York, and Canada, with the hope that in the event of an American or English vessel arriving here, either of them would take an interest in me, and that I might be restored to my own liberty, and for the opportunity of giving information to the people of the United States that some of their countrymen were in prison for life.

"Deposition of Ranald McDonald regarding his imprisonment in Japan, made to Captain James Glynn, USS Preble"
http://www.sos.wa.gov/history/publications_detail.aspx?p=95

2013年2月20日 (水)

「金城山のふもとで」

2月2日に雪国へ行ったことで、ある本のことを思い出し、探し出して大方を再読しました。相当の昔ですが、祖父母の住んでいた家(私が生まれたのと同じ場所です)の隣に老婦人が一人で住んでいて、少女小説を書く作家だということでした。
品の良さそうな方で、祖父とは正反対といってもよい分野の人だったにもかかわらず、気持ちの良いお付き合いをしていたようでした。その方から祖母がいただいた自費出版の本が、出身地である雪深い新潟県の村での子供の頃の思い出を記したものだったのです。
題名は、「金城山のふもとで-私のわらべうた」、著者は水島あやめさんといい、昭和47年の発行です。まえがきに、著者の子供時代は明治の末から大正のはじめにかけてとありますので、今から約100年前のことです。鉄道も通じておらず、ラジオもないころです。その当時の農村の四季の自然と行事が、愛惜の気持ちを込めて、詳しく述べられています。
全部の漢字にフリガナがついており、幼い子供でも読めるようになっていますが、内容は大人が読んでも十分満足できるもので、珠玉の名編といって良い本です。

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題名の山は、ほんとうにあり、口絵に山や山のふもとの村の遠景写真もあるのですけれど、文中には村の名前や近くの町の名前は一切書いてなくて、私のような金城山といわれてもその山を知らない読者には、どこか架空の別世界のことのようにも感じられ、独特の雰囲気に引き込まれます。ときどきいただく自費出版の書籍は、時に処分に困るものもありますが、この本だけは、永く大切にしたいと思っています。
調べてみたら国会図書館にも無いようで、多くの方の目に触れる機会が少ないのは残念です。著者が寄贈したのか、さすがに地元の県や市の図書館にはあるようです。また、一部を収録した書籍は出ているようです。

水島あやめに関するホームページ

http://mizushimaayame.kane-tsugu.com/

My visit to the snow country at the beginning of this month reminded me of a book written by a female writer from the same area. The book is “Kinjosan no Humotode: Watashi no Warabeuta (At the Foot of Mt. Kinjo: The Song of My Childhood” by Ayame Mizushima, private publication in 1972. I have this book since the author was a neighbor of my grandparents about fifty years ago. The book describes the natural environment and customary events of four seasons in a small village of the snow country one hundred years ago as seen by a small child. It is a very good book and it is regrettable that only a few local libraries have the book.

2013年2月17日 (日)

ARRL DX Contest, CW

The CW section of the ARRL DX contest is being held this weekend as usual. I took part in it this morning by a portable station at a riverside location in Shiki City, Saitama, JCC 1328. This was my sixth consecutive participation to this contest from a portable location. I did not intend to compete but wanted just to say hello to CW lovers in the U. S. and Canada. I was pleased to have contacts with several stations on the East Coast on the 15 meter band.

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It was not so windy early morning but wind got stronger later.

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今日は、荒川の河川敷へ行き、コンテストに出てみました。早朝はそれほど風は強くありませんでしたが、だんだん強くなり、マストが折れるのではないかと少し心配でした。 このところ、毎年のように移動で少しだけ参加しています。微弱シグナルですので、スコアは気にせず、W、VEのCW愛好者に少しだけ挨拶できれば良いというスタンスで参加しています。

I tried a long wire antenna, about 30 meter long lifted by a kite, with a 10 meter radial in the afternoon for about one hour.

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午後は、いつも持って行っているカイト・アンテナ(ロングワイヤー+ラジアル)を上げてみました。主に10メガで、国内交信をしました。別に珍しくない市(JCC 1328) でパワーも30W程度でしたが、割りに良く呼ばれました。高さがあるので、飛ぶようです。もっとも、どうしても風の強弱があり、一時はエレメントの垂れ下がった部分が地表に触りそうになり、ひやひやしました。車内からはカイトが見えないので、折り畳み椅子に座っての外での運用になり、さすがにかなり冷えました。

2013年2月12日 (火)

「死の淵を見た男」 "A Man Who was on the Brink of Death"

門田隆将著 「死の淵を見た男-吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」 2012年12月、PHP研究所刊、を読みました。書店の店頭で見つけ、近くの図書館で探したところ、貸し出し中で、6週間ほど待ち、ようやく借りることができました。

福島原発の吉田元所長のほか、一号機、二号機の中央制御室の当直長だった人など、事故のときに第一線の部署で対応に当たった人々が、実名で登場するノンフィクションです。

現場の技術者、運転員などの方々の命がけの健闘ぶりは、テレビ番組などでもすでに一部紹介されていますが、各人の経歴やあの時の気持ちなどが詳細に書かれているので迫力があり、約2年前に報道を見聴きしていたときのなんとも言えない不安な気分を思い出しました。

特に、事故発生から4日目の3月14日には二号機が制御不能になり、格納容器の爆発の危険が高まって「最期」のときを迎える可能性があったとのことです。15日の午前6時過ぎ、圧力抑制室付近で爆発音がし、以後、必要最小限の人員以外は退去し、残った人々は死を覚悟しなければならない状況だったようです。

ただ、この爆発以後、放射性物質が大量に外部に放出されたものの、炉の爆発という最悪の事態はかろうじて免れたようですが、この本は事故原因の究明をテーマとするものではないので、その辺はあまり書いてありません。

未だにどのようなメカニズムで二号機の原子炉自体の爆発を免れたのか、はっきりしていないようで、今のところ運が良かったということになっているらしいです。逆にいえば、現在でも何か運の悪いことが起きれば再度事故になるような可能性も否定できないということで、ちょっと怖くなりました。

いずれにしても、あの事故の現場で命をかけて対処に当たった人々のことは、永く記憶されなくてはいけないでしょう。

いずれはこの本に続くノンフィクションも出ると思いますが、当面は当事者の取材に基づく貴重な記録として、広く読まれてしかるべき本と思いました。

I finished reading "Shi no Fuchi wo Mita Otoko: Yoshida Masao to Fukushima Daiichi Genpatsu no 500 Nichi" (“A Man Who was on the Brink of Death: Masao Yoshida and the Fukushima No. 1 Plant’s 500 Days”), by Ryusho Kadota, December 2012, PHP Institute.

For those who are interested in the outline of the book, there is a review by Ida Torres in the December 11, 2012 edition of "The Japan Daily Press".

2013年2月11日 (月)

WFFとWWFF WFF and WWFF

出来事があってから2月以上ほども経っているようで、遅い記事になりますが、WFFアワードプログラムの状況にかなり大きな変化が起きています。
WFFには、従来からアワードの発行やディレクトリーの改訂が円滑でないなどの問題があったようです。事務局のRW3GWが外部の意見を容れて、各国の代表などからなる委員会を作り、IK5GPGを委員長として、ルールの見直しなどを行っていたようでした。WFFのホームページで、昨年の8月にEW4DXのものとは別の新しいログサーチを作るというアナウンスがあり、また、新しいルールが発表されました。ところが、その後、WFFのホームページはまったく更新されず、新ログサーチも姿を現していません。ただ、EW4DXが管理していたログサーチは機能していましたが、これも昨年12月4日のアップデートを最後に、新しいログが入らなくなりました。

今日までにJAのコーディネーターからMLで知らせていただいたことやDLFF(“Flora & Fauna DL”)、VEFF(VA3RJのサイト内)のホームページに出ているインフォメーションなどをまとめてみますと、次のようなことのようです。

 ・WFFの運営について多くの国の代表とRW3GWの間で意見が一致せず、昨年11月に代表たちがWFFとは別の”WWFF”、WorldWide Flora and Fauna というグループを作った。
 ・WFFに参加し、ログサーチに国別アワードのランキングが載っていたのは19国、WWFFの新しいホームページにメンバーとして載っているのは24国である。19国のうち、12国はWWFFに加わり、ロシア、ウクライナなどの7国はWWFFのリストに見当たらない。WWFFメンバーのうち12国は、ログサーチにランキングが載っていなかった国である。(国名は、WWFFとVEFFの間に少し違いがあり、流動的なところがあるのかも知れない。)
 ・11月には、ログサーチを担当していたEW4DXもWWFFに加わったが、その後、WWFFの運営について意見が合わず、EW4DXはログサーチの管理をやめてしまった。
 ・WWFFでは、近いうちに新しいログサーチを稼動すべく準備中である。過去のデータの80パーセントほどはアップロードできる見込みという。
 ・WWFFでは、各国のディレクトリーの改訂はそれぞれの国の代表に任される。アワードのない国については、担当者が決定する。WFFアワードのような、交信レファレンスの合計に基づくアワードをWWFFが出すのかどうかは不明であるが、視野には入っているものと推測される。

WFF事務局からは、何の発表はありませんが、多数の代表が絶縁宣言をしたくらいですから、今後のアワード発行などの見通しも暗いといわざるを得ません。そうだとすると、国別のアワードがまだないJAFFとの交信は、現時点では何のアワードにも役立たないことになります。当方からお誘いして何らかの形で参加していただいている方々も何人かおられますが、不明をお詫びいたします。
WWFFの活動を見守りつつ、JAFF ML参加の各局と一緒に今後とるべき道を探っていきたいと思います。
“General Information” の「WFFプログラム情報源」には、とりあえず双方を併記しました。

The WFF committee disintegrated and a new organization, the WorldWide Flora and Fauna, WWFF, was formed by the representatives from 24 countries last November.

2013年2月 7日 (木)

「CQ」誌にARLHS関連記事 ARLHS activities in “CQ”

「CQ」誌2月号の79ページ、DX Digest シリーズのDXCC誕生75周年記念ダイアモンドDXCCチャレンジ・アワード関係の記事(JA1ADN局執筆)にARLHSのこととそのホームページのURLが紹介されています。モロッコのイフニからの運用だったCN2LO/pが、Sidi Ifni 灯台(ARLHS MOR-012)からの運用でもあったことから、ARLHSのことに触れられたようです。
“Lighthouse Directory” に、アラビア・スタイルが加味されたこの灯台の写真があります。(ページの中ほど)
http://www.unc.edu/~rowlett/lighthouse/mar.htm

オペレーターは、ベルギー人らしいですが、一昨年からモロッコのあちこちの灯台からオン・エアしているようです。

The ARLHS, Amateur Radio Lighthouse Society, is referred to in the February issue of Japanese “CQ Ham Radio” magazine in connection with the activities by CN2LO/p from  the Sidi Ifni Lighthouse in November of last year. The theme of the article is the Diamond DXCC Challenge award. As the activities in Ifni, the former Spanish territory in Morocco, were qualified for the DDXCCC award, as well as the ARLHS awards, JA1ADN, the writer of the article, seems to have chosen to cite the home page of the ARLHS.

2013年2月 3日 (日)

Snow Country 雪国

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The climate of the Japanese archipelago is diverse. The photos above show scenes from the southern Niigata that records much snow fall every winter. The amount of snow there may be the most among the populated areas in the world. A fortunate encounter by a member of my family led me to go to the area that was less than two hours away from Tokyo by a bullet train, shinkansen, yesterday.

新潟県南部は世界の人の住む地域の中でも有数の積雪量の多い地域だと聞きます。東京から新幹線で2時間もかからずに行けますが、新潟に入ると景色ががらりと変わりました。今回は日帰りで、観光ではなかったので、ゆっくり写真を撮ったりできませんでした。

2013年2月 1日 (金)

Katase Beach 片瀬海岸

The Katase Beach in Fujisawa City, Kanagawa is a good place to see Mt. Fuji beyond the Sagami Bay. I was lucky to have been able to enjoy a scenic view when I strolled on the beach hastily last Tuesday.
There are mountains of Hakone to the left of Mt. Fuji and mountains of Tanzawa to the right. The ridges and slopes of those mountains belong to the Fuji-Hakone-Izu National Park, WFF JAFF-009, and the Tanzawa-Oyama Quasi-National Park, JAFF-050.

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片瀬へ行った火曜日は良く晴れた日で相模湾の向こうに富士箱根伊豆の山々や大山、丹沢山塊を望むことができました。時間があまりなくゆっくりできませんでしたが、伸び伸びした気分になりました。

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